ラザロの死とイエスの死

ヨハネの福音書11章17節~27節

イエスが死人を生き返らせた奇跡は、マタイの福音書では、会堂管理者の娘を生き返らせた例、ルカの福音書では、やもめの息子を生き返らせた例が記されています。しかし、ラザロを死から生き返らせたことは、ヨハネの福音書だけしか記されていません。マタイとルカは、イエスが死人を生き返らせることによって、イエスが神から特別な権威(力)が与えられていることを示しています。ヨハネはこのヨハネの福音書を、彼が晩年になってイエスの生涯を回想して書き上げました。ヨハネの福音書は、他の福音書とは違い、イエスの歩みを順序だてて書いてはいません。それよりも、ヨハネはイエスが誰であるかを中心に書いています。また、ヨハネはイエスの十字架の死と復活に向かってイエスの歩みを書いています。ヨハネはイエスがラザロを死より生き返らせることによって、イエスの十字架の死の歩みが始まったことを表し、十字架の死と復活によって神の栄光が現わされたことを記しているのです。

  • ラザロの病がイエスに伝えられる。

 1節「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。」3節「姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」ここにマリアとマルタとイエスの親密な関係が表されています。姉妹は、弟ラザロの病をいやしてほしいと願い、イエスに使いを送ったのです。6節「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」とあります。イエスは、姉妹とラザロを愛していたとあります。本来ならば、すぐに駆け付けて病をいやしたはずです。しかし、イエスはあえて、二日そこに留まってからベタニアに向かわれました。それには特別な意味がありました。

  • イエスとマルタとの会話

 17節「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。」とあります。ラザロが墓に入れられ四日経っていたとは、ラザロが完全に死んでいたことを表しています。20節「マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。」とあります。21節22節「マルタはイエスに言った。『主よ。もしここにおいでくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。』」マルタは直接、イエスには言っていませんが、なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか、もっと早く来てくださったなら、弟ラザロは死ぬことはなかったのにとの気持ちを含んで言われたものと考えられます。23節「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』」24節「マルタはイエスに言った。『終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。』」マルタは一般的なユダヤ教の教えとして、終わりの日のよみがえりについて信じていました。25節26節「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。あなたはこのことを信じますか。』」27節「彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであることを信じております。』」この会話の中心は、マルタが、終わりの日のよみがえりではなく、イエスが世に来られた神の子キリストであることを告白させるための会話です。

  • イエスとマリアの会話

次にマリアがイエスのもとに呼ばれました。32節「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。』」マリアはラザロが病気の時であったなら、イエスが癒して下さるという信仰は持っていました。しかし、死んでしまったらどうすることもできないという、失望に心がおおわれていました。他のユダヤ人たちもそのように考えていました。37節「しかし、彼らのうちのある者たちは、『見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか』と言った。」とあります。人間の力では、死の問題を解決することは出来ません。マリアも群衆もイエスを神から遣わされた預言者であるとは認めていました。しかし、この時はまだ、イエスが神と同等の権威が与えられていることを信じることが出来なかったのです。

  • 墓から出て来たラザロ

 39節「イエスは言われた。『その石を取り除けなさい。』死んだラザロの姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっています。四日もなりますから。』」40節「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」41節「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。『父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。』そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。『ラザロよ、出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」イエスは死んだラザロを墓から生き返らせました。イエスが、ラザロの病の事を聞いてその場に二日とどまったのは、ラザロが死んで四日目に彼を生き返らせるためでした。そして、この場にいた多くの人々がイエスが神と同等の権威があることを信じました。それでも頑なで、信じない人はこの出来事を悪意を持ってパリサイ人たちに報告しました。彼らはこの出来事を通して、イエスを恐れ、イエスを殺さなければならないと固く決心をしたのです。そういう意味で、ヨハネはこの出来事が特別な奇跡で、ラザロが死より生き返ることによって、イエスの十字架の死の歩みが始まったことを記しているのです。

神が全てを創造し、アダムとエバをエデンの園に住まわせたとき、死はありませんでした。しかし、二人が蛇に誘惑され罪を犯すことによって、人は神から退けられ、神の守りを失いエデンの園から追い出されてしまいました。そして、人は死に支配される者になりました。神は旧約の時代、イスラエルの民に律法(神との契約)を与えましたが、彼らはそれを完全に守ることができませんでした。神の戒めは完全でしたが、人間が不完全なために神の戒めを守ることが出来なかったのです。そこで、神は私たちの罪の問題を可決するために、イエス・キリストをこの地上に誕生させました。イエスは一度も罪を犯すことはありませんでしたが、無実の罪で律法学者たちに捕らえられ、死刑の判決が下され、十字架に付けられて殺されてしまいました。しかし、イエスは神の子ゆえに死より三日目に復活して、天に上って行かれ私たちの救いを完成されたのです。イエスが神の子でなければ、死より復活することは出来なかったでしょう。また、イエスが死より復活されたからこそ、私たちの罪の赦しがあり、私たちは永遠のいのちを持つ者とされたのです。罪を犯したのは人間です。十字架の刑罰は私たちが受けるべき刑罰でした。それほど罪とは恐ろしいものです。しかし、イエス・キリストは、私たちをこの刑罰から救うために、自ら十字架を負われ、いのちを犠牲にされたのです。聖書はそれが神の愛の表れだと教えています。神の子の命によって私たちは、神の刑罰から救われ、神と永遠に生きる者とされたのです。