ヨハネの福音書13章1節~15節
イエスがラザロを死から生き返らされることによって、人々は驚き、イエスこそ旧約聖書で預言された救い主メシヤではないかと、イエスに対する群衆の期待は高まりました。それを見た律法学者や祭司長たちは、イエスに対して脅威を感じ、イエスを殺さなければならないと企てるようになりました。それによって、イエスは十字架の死への道を歩み始められたのです。また、マリアは弟ラザロをイエスに生き返らせていただき、イエスの足に高価なナルドの香油を注ぎ自分の髪で拭いました。それは、彼女のイエスに対する最高の感謝のしるしでした。それを見たイスカリオテのユダは、もったいないと彼女を咎めました。しかし、イエスは彼女を擁護し、マリアはわたしのために葬りの準備をしてくれたと、マリアの行為を喜んで受けられたのです。
1、弟子たちの足を洗うイエス
ヨハネの福音書13章1節「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」とあります。欄外には「極みまで」と訳されています。また、ある聖書の注解者は「残すところなく愛された」と訳しています。この方がイエスの気持ちを十分に表した言葉ではないかと思います。イエスは弟子たちの別れを惜しみ、ご自分の愛を余すことなく示されました。それが、イエスが弟子たちの足を洗われた場面なのです。2節「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」とあります。ヨハネの福音書12章6節で、使徒ヨハネはイスカリオテのユダが金入れを預かっていながら、その金を盗んでいたと証言しています。イスカリオテのユダは罪を犯しており、悪魔に付け入るスキを与えたのかもしれません。3節「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。」とあります。イエスはこの時すでに、死を覚悟し、死が終わりではなく父のみもとに行く事を確信しておられました。4節5節「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」とあります。人の足を洗うことは当時、一番低いしもべの仕事とされていました。イエスが突然、弟子たちの足を洗い始めた時、弟子たちは非常に驚いた事でしょう。6節にイエスがペテロの足を洗おうとする場面があります。本来、ペテロが弟子たちの頭的な存在ですから、ペテロの足から洗い始めるのが普通と考えますが、話の流れからすると、ペテロの足を洗う順番が最後のように記されています。ペテロはイエスから足を洗われることを拒んで最後になったのかもしれません。(これは想像です)6節「こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。『主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。』」ペテロにとって、イエスは尊敬すべき先生です。その師に足を洗っていただくなど恐れ多いという気持ちだったでしょう。7節「イエスは彼に答えられた。『わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります。』」弟子たちは、なぜ、イエスが自分たちの足を洗い始めたのかわかりませんでした。それゆえ、8節「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』ペテロはなおも、イエスに足を洗われることを拒みました。そんな頑ななペテロにイエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。』」ペテロはイエスに、足を洗わなければ関係ない者になると言われて、あわてて、9節「シモン・ペテロは言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。』」と言いました。ペテロらしい反応です。10節「イエスは彼に言われた。『水浴したものは、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。』11節「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『皆がきよいわけではない』と言われたのである。」とあります。イエスが弟子たちの足を洗われたことには、二つの意味が含まれていました。(1)霊的な意味、(2)教訓として。
- 霊的な意味
イエスは弟子たちの足を洗う事で、十字架によるきよめについて弟子たちに教えようとされました。イエスの十字架の死は私たちの罪の身代わりで、私たちを罪の刑罰から救うためです。弟子の足を洗うという事は、イエスが弟子たちの罪を洗いきよめることを意味していました。それゆえ、ペテロがイエスを拒んだ時、イエスは彼に言われました。8節「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」このことばは、今の私たちにも当てはまります。私たちは、イエスの十字架の死と復活によって、罪赦された者になりました。しかし、これは科学的に証明できることではありません。それゆえ、イエスを救い主と信じない者にとって、イエスの死は二千年前の出来事で、今の私たちと何の関係があるのかと言われます。しかし、自分の罪を認め、イエスを救い主と信じる者にとってイエスの十字架の死は私の罪の身代わりであり、イエスの復活によって私の罪は赦されたと信じています。それは、信仰の業であり、聖霊の助けがあるからです。しかし、イエスをただの人間と理解し、十字架が二千年前の出来事とだけ考える人にとって、罪の赦しや救いなど何の関係のないものになってしまいます。それゆえ、イエスがここで示された、弟子の足を洗うという事はこれから行われる、十字架の死と復活による救い(きよめ)について教えるためだったのです。しかし、ペテロはそんなことを理解できず、イエスが彼の足を洗うことを拒否したため、わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もないとイエスは言われたのです。
- 教訓として
イエスの弟子、十二使徒の間でも誰が一番偉いかと議論していました。彼らはみなイエスが栄光を受けた後、イエスの右と左の権力の座に着きたいと考えていました。そんな弟子たちにイエスはこのように言われました。14節「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」15節「わたしがあなたがたにしたとおりに、するようにと、あなたがたに模範を示したのです。」先程も言いましたように、弟子たちは自分が他の弟子たちより高い地位に着きたいと願っていました。イエスは自分が天に昇った後、弟子たちが対立しないように、仕える者なりなさいと諭されたのです。互いの足を洗うという事は、自分を低くすることです。イエスはマタイの福音書20章26節~28節「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」と言われました。もうすぐクリスマスを迎えます。イエス・キリストは神の姿を捨てて人として生まれました。また、イエス・キリストは王宮や貴族の家ではなく、大工の家で馬小屋で生まれました。それは、どこまでも自分を低くして、私たちの近くに来られたということです。私たちも、人の上に立ち人を力や権威で従わせるものではなく、イエスのようにへりくだり仕える者として生きていきたいと思います。