和解の福音

「和解の福音」ローマ人への手紙5章8節~11節

毎週木曜日午後1時半から3時まで、お茶の水クリスチャンセンターで、堀先生からカウンセリングを学んでいます。前期は講義が中心でした。後期からは、実際の事例を通して、ロールプレーで実習を行っています。ロールプレーというのは、一人が事例の相談者を演じ、もう一人がそのお話を聞いて、実際にカウンセリングの実習を行うと言うものです。カウンセリングの基本は相手の話を聴くことです。聴くといっても相手の話を黙って聴くだけではありません。堀先生が教えておられることは、相手の話を聴きながら、ことばに表れない相手の感情を拾いなさいと教えています。今、相談者は、怒っているのか、悲しんでいるのか、その感情に寄り添いなさいと教えられます。私にとっては難しいことで、私は相手の問題の解決を第一に考えてしまいます。そうではなく、相手の感情を理解することからカウンセリングは始まります。少しづつそのことを学んでいるところです。

カウンセリングで学ぶ事例は、夫婦の問題、親子の問題、会社での人間関係などの問題が取り上げられます。時代は変わっても、人間の悩み、問題は変わらないようです。聖書の中でも、夫婦の問題、親子の問題などが取り上げられている聖書の個所があります。

(1) アブラハムとサラの夫婦の問題。
サラは不妊の女性で、高齢になって子を産めない年齢になってしまいました。そこで、サラが取った行動は、自分の女奴隷を夫に妻として与えたことです。当時、子孫を残すことは、特に大事なこととされていました。サラは自分が子を産めないので、その代わりに、自分の女奴隷を差し出すことによって、子孫を残そうとしたのです。しかし、そのことによって、家庭に問題を起こすことになってしまいました。後に、サラは神様によって子が授かり、アブラハムはそれゆえ、先にサラから与えられた女奴隷の子イシュマエルを追い出さなければならなくなってしまいました。アブラハムにとってどんなにつらい決断だったでしょう。

(2) イサクとリベカの夫婦の問題。
アブラハムの息子イサクはリベカという女性と結婚しました。彼女は身ごもり双子を産みました。兄のエサウは野の人となり狩りを好む男性的な青年に成長しました。弟のヤコブは天幕に住み料理を作ることを楽しむ穏やかな青年として成長しました。狩りを好むイサクは長男のエサウを愛し、リベカはヤコブを愛したとあります。この夫婦の偏った愛し方がこの家庭に悲劇を生みました。イサクが年をとったとき、イサクは後継者としてエサウを祝福するつもりでした。ところが妻のリベカは、ふたりが生まれる時の神様のことば(兄が弟に仕える)を信じて、弟のヤコブが後継者になるべきだと信じていました。そこで、リベカはヤコブに兄に成りすまして、兄の祝福を奪い取るように命じたのです。ヤコブは母に言われたとおりに、兄に成りすまして、兄の祝福を奪い取ってしまいました。それを知った兄のエサウは、弟のヤコブを憎み、殺すことを決心したのです。また、それを知ったリベカはヤコブを助けるために、ヤコブを自分の兄ラバンの住む町に旅立させたのです。その後、ヤコブは20年の歳月の後、神様の命令によって生まれ故郷に帰ります。ヤコブは神様の助によって兄と和解することができたのです。

(3) ヨセフと兄弟たちとの和解。
先ほどのヤコブは叔父ラバンのもとで働きながら4人の女性を妻としました。そして、ヤコブは四人の女性によって12人の息子を得ました。それぞれ、母親が違うこどもたちが、一つの家庭で生活するのに仲良く生活できるはずがありません。特にヤコブはラケルを愛し、ラケルの子ヨセフを他のこどもたちよりも愛しました。他のこどもたちは、ヨセフを憎み彼と仲良く暮らすことができませんでした。ある時、兄弟たちが羊の群れを飼うために出かけている時、後から、ヨセフが現れました。普段からヨセフを憎んでいる兄弟たちは、ヨセフを捕らえ、イシュマエル人の商人にヨセフを奴隷として売り渡されてしまいました。ヨセフはエジプトで奴隷として働かされました。しかし、神様の恵みによってヨセフはエジプトの総理大臣に抜擢されたのです。また、その後、その地方に大きな飢饉が訪れました。ヤコブのこどもたちは飢饉のためにエジプトに食料を買い出しに出かけました。そこで、ヨセフと兄弟たちは再び出会いました。しかし、ヨセフは自分の兄弟たちとわかりましたが、他の兄弟たちはまさかヨセフがエジプトの総理大臣になっていようとは思いもしませんでした。ヨセフは、兄弟たちが自分にしたことも神様の計画であることを理解し、自ら兄弟たちを赦し、兄弟たちと和解することができたのです。

(4) ダビデとアブシャロム親子の悲劇。
ダビデが王となり国が安定していたころ、ダビデの息子アムノンは腹違いの妹タマルを愛し、彼女を犯してしまいました。タマルの兄アブシャロムは父であり、王であるダビデがこのことをどのように裁くか様子を見ていました。しかし、ダビデは罪を犯したアムノンに法的な裁きを行いませんでした。そこで、タマルの兄アブシャロムは自らアムノンを殺し、国外に逃亡してしまいました。その後、ダビデの部下ヨアブの意見に従い、ダビデはアブシャロムを国に呼び戻しました。しかし、ダビデは、息子アムノンを殺したことで、アブシャロムを赦すことができませんでした。しばらくして、アブシャロムはダビデの部下に近づき、次第に彼らと親しくなり、ダビデの王権を奪う計画を立てました。そして、その準備が整うと、自分の父であるダビデを殺すために軍隊を差し向けたのです。ダビデはそのことを事前に知り、王宮から大急ぎで逃げ出しました。そして、ダビデは自分の息子アブシャロムと戦わなければならなくなりました。ダビデは自分の部下たちにアブシャロムを殺さないように命じました。しかし、将軍ヨアブは木に頭を引っ掛けて吊り下がっているアブシャロムを見つけて、彼をやりで刺して殺してしまいました。戦いが終わり、アブシャロムが殺されたことを知ると、ダビデは大きな後悔でアブシャロムの死を悲しみました。アムノンの罪を正しく裁いていればこのような悲劇は起こらなかったでしょう。また、ダビデが自分の罪を認めてアブシャロムと和解をしていれば、ダビデはアブシャロムに命を狙われたり、アブシャロムを失うことはなかったでしょう。ダビデが王として罪を正しく裁かなかったこと、父としてアブシャロムをゆるすことができなかったことがこの悲劇を生んだのです。

(5) 神様と私たちとの和解。
ローマ人への手紙5章の中で、パウロは私たちの救いについてわかりやすく説明しています。カギとなる大切な言葉は、(1)6節「私たちが弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(2)8節「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(3)9節「ですから、今キリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(4)10節「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」この神との和解において、人間は何も働いていません。神が私たちと和解するために、ひとり子を犠牲にされたということです。和解とはどちらかが歩み寄らなければ成立しません。ヨハネは被害者ですが、神様によって加害者である兄弟たちを赦しました。そして、和解が成立したのです。もし、ヨハネが兄弟たちを赦さなかったら、その後のイスラエルの12部族は成立しなかったかもしれません。ダビデは自分の息子アムノンを殺したアブシャロムを赦すことができず、アブシャロムも父を赦すことができませんでした。その結果、二人は命を奪い合い、ダビデはもう一人の息子アブシャロムを失い大きな後悔をしました。神様は私たちと和解するために、ひとり子イエス様を十字架の上で犠牲にされました。それは、私たちの罪を赦し、神様と人がもう一度親しい関係を取り戻すためです。郵便物を送っても、受け取り手が、受け取り拒否をすれば、その郵便は送り主に返されます。神様から私たちに与えられた救いも同じです。神様は私たちのために犠牲を払って私たちに救いを与えてくださいました。私たちはそれを受け取るか、拒否するかです。私たちにとって、この神様との和解はどんなに大切なものでしょうか。もう一度、私たちに与えられた救いについて良く考えてみましょう。