人のいのちの価値

「人のいのちの価値」ヨハネの福音書9章1節~7節

オリンピックが終わりますとすぐに、パラリンピックが始まります。パラリンピックは障がい者のオリンピックと呼ばれ、障がいをお持ちの方々が、互いにスポーツで競い合う世界大会です。しかし、まだまだ、オリンピックに比べ、知名度は低く、その評価もオリンピックに比べ高くはありません。オリンピックで金メダルを取ると、新聞、テレビなどで大きく報道されます。しかし、パラリンピックではどうでしょうか。金メダルを取ってもそれほど報道されません。そこに、一般の人々の関心の違いが大きく現れています。

元々、障害者という考えは、健常者と比べて害ある者、低く見られてきました。生まれつき、障がいを持って生まれたならば、いっそう、世間からかわいそうという、憐れみの目で見られました。ヨハネの福音書9章で、イエス様は生まれつきの盲人に目を留められました。それを見て、弟子たちはイエス様に質問しました。2節「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」人は苦しみの原因を知ろうとします。その原因がわかれば少しは苦しみが軽くなると考えるからです。弟子たちが考えた苦しみの原因は、彼の罪か、両親の罪の報いかということでした。日本でも、苦しみの原因を先祖の祟りと考えてきました。イエス様は、弟子たちが考えた答えとは全く違う答えを言われました。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」私たちは、障がいや苦しみ、悲惨な状況を罪の報いと考えますが、イエス様は「神のわざがこの人にあらわれるため。」と肯定的な見方で障がいということを考えていたのです。実際、この場面でこの盲人はイエス様と出会って、目が開かれ、イエス様が神様から遣わされた特別なお方であることを証明しました。ここで私たちが考えたいことは、イエス様は何故、彼にシロアムの池に行って目を洗いなさいと言われたのかということです。イエス様の力からすれば、その場で彼の目を開くことはできたはずです。ここで彼には二つの選択肢がありました。一つは、イエス様のことばを信じない選択です。もう一つは、イエス様のことばを信じてシロアムの池に行くことです。目の見えない彼がシロアムの池に行くことは困難な事だったと思います。本当に、イエス様のことばを信じないならば、だれが、シロアムの池にまで行くでしょうか。イエス様は彼に信仰のチャレンジを与えられました。そして、彼はイエス様の信仰のチャレンジに応えてシロアムの池に行くことを決心したのです。神様は、私たちにも時として、信仰のチャレンジを与えられます。私たちは神様のことばを信じ従うこともできれば、無視することもできます。もし、この盲人の青年がイエス様のことばに信頼してシロアムの池に行かなければ、彼の目は一生開くことはなかったでしょう。また、神様の栄光を現す人生とはなりませんでした。

神様は私たちを祝福するためにいのちを与えてくださいました。それは、障がいのあるなしは関係ありません。ある障がいを持ったクリスャンの方が言われました。「私は不便ではあるが不幸ではありません。」幸いか不幸かは、障がいのあるなしに関係ありません。健康な人でも不幸な人はたくさんいます。また、障がいを持って生まれても幸いな人生を過ごす人もいます。それは。本人の考え次第ではないでしょうか。

相模原で19人の障がいを持たれた方々が殺されました。犯人の考えは、障がい者は生きる価値がない。生きていても社会の役に立たないから殺したと供述しているそうです。確かに人間の価値を能力で量るならばならば、障がい者は健常者の能力に劣り、価値がないと判断されてしまいます。人間の価値をその能力だけで量るならば、社会に必要のない人々がたくさん出てきます。人間の価値とはその能力で量るものではなく、神様から与えられたいのちだから高価で尊いのです。

神様は私たちが幸いなものとなるように、いのちを与えてくださいました。しかし、神様は私たちに自由意志をも与えてくださいました。それゆえ、私たちは神様のロボットではないので、神様のことばに従うこともできれば、無視することもできます。しかし、その結果は大きな違いをもたらします。先ほどの盲人の男性の場合、イエス様のことばを信頼しシロアムの池に行って目を洗う決断をしました。その結果、彼の人生は、神様の栄光を現す者となり、彼の人生は変えられたのです。神様は、私たちを愛しておられる故に、ご自身のひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりとしてくださいました。それほど私たち一人一人を愛し、尊い者としていのちを与えてくださったのです。それを考えるなら、この地上に無駄ないのちは一つもなく、神様の目には、障がい者も健常者も区別なく、尊いいのちなのです。

創世記の4章で、兄カインが弟アベルを殺す場面が描かれています。カインはなぜ、弟アベルを殺してしまったのでしょうか。それは、二人が神様に捧げた捧げ物のうち、神様はアベルの捧げ物には目を留められたが、カインの捧げ物には目を留められなかったからです。創世記の4章5節を見ると「カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。カインはアベルに嫉妬し憎しみの感情を持ちました。神様はカインの心の中を知られ、彼に警告を与えています。7節「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは神様の警告を無視し、アベルを野に呼び出して殺してしまったのです。ここでも、カインに二つの選択がありました。一つは、自分の間違いを認めて怒りを治めること。もう一つは、怒りに任せて弟アベルを殺すこと。カインはアベルを殺すことを選択したのです。その後のカインの人生は、神から離れ、神に敵対する民族となってしまいました。神様はカインもアベルも等しく愛しておられたのです。しかしカインはその神様の愛に背を向け、自分の欲望を満たす世界を作り上げてしまいました。

神様は私たちを愛し、私たちに自由意志を与えてくださいました。それは、私たちが自ら神様の愛に応える人生を選ぶためです。しかし、自由意志を間違った方法で利用するなら、カインのように、自分の欲望を満たす人生を選ぶことになってしまいます。刃物は私たちの生活に必要な道具です。しかし、使い方を間違えれば人のいのちを奪う凶器にもなります。神様は私たちを祝福するために、自由意志を与えてくださいましたが、私たちはその祝福を正しく用いているでしょうか。障がいがあっても、なくても、神様は等しく私たちを愛しておられます。本当の幸いとは、この神様の愛の中に生きることではないでしょうか。