信仰は目に見えない物を確信させる

「信仰は目に見えない物を確信させる」へブル人への手紙11章1節

信仰とは、私たちが自分の罪に気付き、イエス様のなしてくださった、十字架の死と復活を信じることによって、天国の住人になることだけではありません。もし、信仰が救いを得させるためだけであるなら、死ぬ間際にイエス様を信じれば良いということになってしまいます。それでは、信仰とは、救いを得させる以外にどのような得(利益)があるのでしょうか。はたして、私たちはこの地上において、信仰を持って生きる必要があるのでしょうか。

1、 信仰とは自分の力で、正しい者となることではありません。
イエス様の時代、信仰深い人とは神様の戒めを完全に守る人のことを指していました。それゆえ、律法学者パリサイ人たちは、自分たちがいかに、信仰深いかを示すために、人にわかるように断食し、祈りの時間に人通りの多い場所に立ち、エルサレムの神殿に向かって手を上げて祈りました。イエス様は弟子たちに彼らの真似をしないように戒め、彼らは偽善者であると教えました。

2、 信仰とは神様の存在を信じるだけではなく、神様のことば、約束を信じることです。
悪霊は、イエス様が近づくと、すぐにイエス様が神の子のであることを見抜き、御前にひれ伏したとあります。悪魔はすでに敗北者であり、終わりの日に、神の刑罰を受けなければならないことを知っていました。世界中にたくさんの宗教があることを考えると、何かの神様の存在を信じている人はたくさんいます。逆に、神様の存在を否定する無神論者の方が世界的に見るなら少数派であることがわかります。しかし、どのような神を神として信じるかが大切であり、また、その神が何を私たちに教えているのか、その内容を学び、信じることが信仰と言えます。

3、 聖書で教える神はどのような神で、私たちにどのようなことを願っているのでしょうか。
神とは、(1)唯一の存在。(2)全能。(3)創造主。(4)世界の支配者。
人間とは、(1)被造物(作られた)(2)罪人。(3)神によって裁かれる者。

聖書は、神は私たちを罪の刑罰から救うために、ご自身のひとり子を人としてこの世に遣わし十字架の上でいのちを取られたと教えています。それゆえ、私たちがイエス様の十字架の死が私たちの罪の身代わりであることを信じるなら、私たちの罪は赦されると教えています。それが救いです。しかし、聖書が教える神様の働きはそれだけではありません。神は人を愛し、人を選び、共に人生を歩む神であることを教えています。それが、旧約の時代は、特別に選ばれた人だけに限られていました。アブラハムやモーセやダビデのように。しかし、新約時代に入って、イエス様が死より復活されたことによって、神様はイエス様を神の子と信じる者には、聖霊様を与えると約束してくださいました。聖霊様は三位一体なる神様の一人格、神様と同じ存在です。それゆえ、聖霊様が共におられるということは、神様が共におられると同じことを意味しています。旧約時代は特別に選ばれた者だけに与えられた特権でした。ところが、新約聖書の時代に入って、イエス様を信じる人々には聖霊が与えられると約束されています。ということは、イエス様を神の子と信じるも者には、神ご自身が共に人生を歩んでくださるということです。アブラハムを祝福した神様が私たちをアブラハムと同じように祝福してくださるということです。また、モーセを助けた神様が私たちと共にいてくださるのです。これは、どれほど大きな力となり、勇気となるでしょうか。それゆえ、私たちはもっと旧約聖書を読むべきです。それも、過去の歴史としてでははなく、今、自分の人生の中に働く神を見るように。

モーセがエジプトの地において、10の災害を行うことによって、イスラエルの民は男性だけで60万という群衆がエジプトから旅立ちました。神様はあえて紅海の近くにイスラエルの民を導きました。後になって、エジプトの王はイスラエルの民が出て行くのを許したことを後悔し、大軍をもってイスラエルの民の後を追わせました。イスラエルの民は驚きました。遠くからエジプト軍の大群が押し寄せてきたのです。目の前は紅海、後ろはエジプトの大群、イスラエルの民は行き場を失い恐れおののきました。ある者ははモーセに文句を言いました。出エジプト記14章11節「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。」イスラエルの民はエジプトの地で10の災害を体験した者たちです。しかし、彼らはこの窮地において、エジプトでの奇跡を忘れたかのように、モーセに不満をぶつけたのです。同じ場面において、モーセはエジプトの大軍を怖れたでしょうか。モーセは彼らにこのように答えています。13節「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。」14節「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」同じ場面に立ちながらなぜ、モーセは群衆のように、恐れおののかなかったのでしょうか。それは、彼に与えられた信仰の故です。モーセはどのような状況においても神様が必ず助けてくださると信仰によって信じたのです。モーセが手を海の上に差しのばすと、強い東風が一晩中吹いて海を退かせ、水が分かれ陸地が現れました。モーセたちは、乾いた陸地を渡って向こう側へと渡っていきました。エジプトの大軍もイスラエルの民を追って、海の乾いた地へと踏み入りました。もう一度、モーセが海にの上に手を指しのばすと、波がエジプトの大軍を覆い、エジプトの大軍は波に呑まれて、全滅してしまいました。この危機的な場面で、イスラエルの民はエジプトの大軍に目を奪われ恐れおののいていました。しかし、モーセだけは神様を見つめていました。モーセはエジプトの大軍よりも、イスラエルの神の方が強く偉大なお方であることを知っていたのです。

神を知る、神を信じるとはそういうことです。私たちの人生にも、イスラエルの民と同じような危機的な状況に立たされる時があります。事故、病気、失業、愛する家族を失った時など。その時、私たちは何に目を向けているでしょうか。絶望の現実か、それとも、私たちを愛しておられる神でしょうか。ローマ人への手紙5章3節~5節「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。神の愛が私たちの心に注がれているからです。」信仰とは、神に愛されていることを知り、神様が自分を決して見捨てないことを信じることです。私たちはモーセのように偉大でなくても、神様はイエス様を神の子と信じた者には同じ祝福を与えると約束してくださいました。これこそが、神様が私たちに与えてくださる信仰による祝福なのです。