神を父と呼ぶ特権

「神を父と呼ぶ特権」マタイの福音書6章9節~13節

今日は、父の日です。父の日にちなんだお話をします。世の中には色々なお父さんがいます。昔は、父とは怖い存在で、雷おやじなどと呼ばれたものです。現在は、やさしいお父さんが増えて、逆に、父親の権威が無くなってきたとも言われています。理想的な父親とはどのような父親でしょうか。完全な父は存在しません。誰しも、欠点があり、弱さを持った者です。完全な父は神様しか存在しないのです。

イエス様は、神様に対して父という呼びかけで祈りました。また、弟子たちにも父に呼びかけるように祈りなさいと教えました。これは、当時のユダヤの国では驚くべき祈りです。ユダヤ人にとって、神様は天地の創り主。人間は神に作られた者です。神を父と呼ぶことは、自分を神の子と宣言することであり、人間が自分を神、神の子と宣言する者は、神を冒涜する者で死刑と定められていたのです。イエス様はそのような状況であることを知りつつ、神を父と呼びかけ、弟子たちにも父と呼びかけて祈りなさいと言われたのです。イエス様はまぎれもない神の子です。しかし、私たちは、神に造られた者で、決して神を父と呼ぶことが許されない者です。しかし、聖書は、「イエス様を救い主と信じた人々には、神のこどもとされる特権をお与えになった。」と約束しています。つまり、私たちはイエス様によって神の子となる特権を与えられたという意味です。神の実の子ではないけれども、イエス様によって神の子としての身分が与えられた。イエス様を神の子と信じる者を天の父は自分の子として認めてくださったということです。

マタイの福音書5章から7章は、イエス様が山の上で群衆に語られた重要なイエス様の説教です。その中で、6章の前半では、善行について教えられ、5節から祈りについて教えられています。その中で、イエス様はあの有名な主の祈りのことばを教えられたのです。主の祈りは、イエス様が群衆に教えられた「祈りの型(見本)」です。主の祈りの中で一番重要なの最初の呼びかけです。イエス様は祈りの初めに「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけるように教えられました。祈りとは、キャッチボールに例えることができます。クリスチャンになる前の私の祈りは、相手のいないキャッチボールでした。誰に祈ったらいいのかわからないので、とにかく、神様に祈りました。そんな祈りが神様に届くはずがありません。今、考えれば気休め程度の祈り(答えを期待しない祈り)だったように思います。しかし、クリスチャンになってからの祈りは違います。誰に向かって祈るのか、神がどのようにわたしの祈りを受け取ってくださるのかを、分かるようになったからです。

マタイの福音書6章24節は二人の主人に仕えることはできない。神にも仕え富にも仕えることはできないと教えています。そして、26節から、空の鳥を見なさい。野のユリがどうして育つのかをわきまえなさいと教えています。なぜ、空の鳥は、種まきもせず、倉に納めないのに生活ができるのでしょうか。それは、天の父が養ってくださっているからだとイエス様は言われました。また、野のユリがどうしてこんなに美しく咲くことができるのでしょうか。これも、天の父が装ってくださるからだと教えています。そして30節のことばがあります。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」空の鳥、野の草さへこれほどに養ってくださっているのだから、父である神が私たちを養ってくださることは当然のことではないでしょうか。私たちは、どうして明日の事、一カ月先の事、一年先の事、十年、二十年先の事まで心配するのでしょうか。それは、まだ自分が神の子として、神様に受け入れられていることを信じていないからです。

先ほど、イエス様は実の子であるが、私たちは実の子ではないというお話をしました。私たちが神の子とされるのは、父である神様が私たちを子として扱ってくださるからです。この世的に言えば養子の身分です。養子は、親との血縁関係はありません。しかし、法律で親子と認められる立場です。以前、小さな男の子を養子にした友人の話を聞いたことがあります。男の子を養子にしたのだけれど、なかなかお父さんと呼んでくれないというお話でした。

それから、一年ぐらいたった後、その友人のお宅に呼ばれたことがありました。その時、驚くことに、その、小さな男の子が、「パパ、パパ」と友人にまとわりつく姿を見ました。あとで、どうしてそのように親しい関係になったのかを聞いたら、色々あったけれど知らない間にこのようになったということでした。子供が親を自分の父と信頼するにはある程度の時間が必要だったのでしょう。

神様と私たちの関係も同じことが言えると思います。私が洗礼を受けて、1年ほど、神様を父として祈ることができませんでした。偉大な神をどうして父と呼ぶことができるのか、頭ではわかっていても、また、言葉としては「天の父なる神様」と祈っていても、心の中にはいつも違和感がありました。私が心から神様を父と呼びかけることができたのは、日本を離れ、二か月間、香港で多くの外国人の中で生活し、また、二カ月間、中国で伝道訓練を受けた後のことでした。その四か月間は、だれにも頼ることができず、ただ、神様に祈ることしかできませんでした。日本にいる時には、自分に頼り、周りの人に頼ることができました。しかし、外国の地では、神様に祈り、神様に頼ることしかできなかったのです。そのような生活の中で、私は、自分の力で生きているのではなく、神様の御手によって生かされていることを学ぶことができたのです。 神様との関係は、頭や知識で深まるものではありません。先ほどの、友人のように、こどもと共に、笑って、泣いて、愛されて、信頼関係は深まるものです。救いは、イエス様を信じる信仰によって与えられますが、信仰の深みは神様との直接の関係によって深められていくものです。私は、自分がどんな失敗をしても、神様は私を捨てないとの確信を持っています。それゆえ、勇気をもって神様の御心に従っていくことができるのです。