神の声を傾聴する

「神の声を傾聴する」サムエル記第一3章1節~9節

カウンセリングの基本で、大切な働きが「傾聴」するという作業です。相手の話を聞くだけではなく、「傾聴」とは相手の話を能動的に聞くということです。能動的に聴くとは、相手の内なる声を聴くということです。テレビドラマで、夫が仕事から帰ってくると、妻がこどもの事や色々なことを夫に話しかけますが、夫は、「あ~」とか「そ~」とかしか返事をしないと、妻が怒って、「あなた聞いているの」と、感情を爆発させる場面があります。夫は「聞いてはいますが」「聴いてはいません」つまり、音としては妻の声は耳には入るが、右から入って左から抜けるように、心には留まりません。それは、妻の声は聞こえているが、妻の伝えたいという気持ちを受け取っていないということです。「聞く」ことは誰でもできますが、「聴く」ことは訓練が必要です。私は、この「聴く」ということが苦手な者です。相手の話を聴いているようで、頭の中では、その問題の解決を考えていて、その人の内面の声を聴くのが苦手です。これから、カウンセリングを学び、相手の内なる声を聴きとる者となりたいと思います。

では、私たちは神様の声を聴いているでしょうか。先ほど、サムエル記第一3章1節から9節までを読んでいただきました。サムエル記は預言者サムエルが主役ですが、その前に、サムエルの両親と祭司エリが登場します。サムエル記の前半の背景は、士師記の後半、イスラエルの民が、神様から離れ、めいめいが自分勝手な生活をしていた時代、宗教的に堕落した時代を背景としています。祭司エリは、宗教指導者としてイスラエルの民を指導する力はありませんでした。彼のこどもたちですら神殿でみだらな行為を続けていたのです。そんな時代に、サムエルは生まれ、サムエルの母ハンナは、神様に祈った約束通り、生まれたサムエルを神様に仕えさせるために、祭司エリの元に預けたのです。

サムエル記第一3章1節「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とあります。神様はなぜ、御心を示さず、幻も示されなかったのでしょうか。祭司エリは神様のことばを聴こうと努めたのでしょうか。伝統を守ることは大切ですが、時として、中身がなく、外側だけ、伝えられただけを行う場合があります。祭司エリは、祭司として神殿に仕え、儀式は忠実に行っていたかもしれませんが、肝心な神様の声を聴くという働きについてはどうだったのでしょうか。語りかけたくても、聴く側が聴こうとしなければ語ることはできません。そういう意味では、祭司エリは祭司としての働きを十分に理解していなかったのかもしれません。神様は新たに、ご自分の声を聴く者を求めていました。サムエルはまだ、幼い者でしたが、純粋な心をもっていました。後に、サムエルは神様の声を聴き、語る者になったのです。預言者とは、未来を予測する者ではなく、神様のことばを預かるものです。まさに、サムエルは神様の預言者となるために生まれた者でした。

では、私たちはどのように、神様の声を聴くのでしょうか。それは、みことばと祈りにおいてです。神様ははじめから、私たち人間を神様の声を聴く者として創造してくださいました。しかし、私たちの先祖アダムとエバは罪を犯し、エデンの園から追い出され、神様との親しい関係を失ってしまいました。しかし、私たちは祈りを通して神様と繋がることができるようになりました。また、神様はご自身と私たちが親しい関係を回復できるように、聖書を与えてくださったのです。聖書のことばは、二千年前、旧約聖書は四千年前に書かれた書物です。しかし、その著者である神様は今も生きておられます。それゆえ、聖書のことばも過去のことばではなく、今、語りかけてくださる神様のことばなのです。私は、30回以上、旧約聖書と新約聖書を読んでいます。しかし、30年前、25歳で読んだ時と今では、神様のことばを受ける内容が違ってきています。聴く側の私の信仰が成長しているからです。

ヤコブの手紙1章12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠をうけるからです。」とあります。この手紙はヤコブという人が、国外に散っている十二部族に宛てた手紙です。何も考えないでこの個所を読むなら、二千年前のユダヤ人に宛てられた手紙で、自分とは何の関係もありません。それゆえ、何の感動もおこりません。しかし、試練と苦しみの中にあり、神様に助けを求めている人がこの個所を読んだらどうでしょうか。たとえ、今は苦しくても、その先に、いのちの冠、祝福が備えられていることに、希望を持つのではないでしょうか。それがディボーションです。聖書は、不特定な人のために書かれた書物ですが、私たちが信仰を持って神様のことばに耳を傾けるなら、聖書のことばが、私に語り掛けてくださった神のことばとなるのです。

カウンセリングは相手の話を聴くのが仕事です。話を聴いてもらうだけで、心が軽くなり、新たな発見、また、自分の奥に隠された本心に気付かされることもあります。神様との関係も同じです。祈りは、自分の願いを神様に一方的に投げかけることが祈りではありません。祈りによって神様に近づき、神様の懐に入ることによって平安を得、また、自分でも気づかない、感情や傷を発見し、いやされるのです。詩篇139篇23節、24節「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私の内に傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。祈りにおいて、神様に近づき、神様と交わることができないなら、祈りとはなんと味気ないものでしょう。しかし、神様は私たちが祈るとき、近くにおられ、私たちの祈りを聴き、私たちの魂を癒してくださいます。それゆえ、私たちは毎日、神様に近づき祈ることができるのです。