「見ずに信じる者は幸いです」

「見ずに信じる者は幸いです」ヨハネの福音書20章24節~29節

イースターとクリスマスは、教会にとって大切な記念日です。クリスマスは、救い主であるイエス・キリストの誕生をお祝いし、イースターはイエス様が十字架に着けられ、殺され、死より三日目に復活し、天の父なる神のもとに昇られたことをお祝いする記念日です。クリスマスは、クリスマスリースを作って飾りますが、イースターはたまごに色を付けて飾ります。今年は、食事会の後、皆でイースターエッグを作ります。なぜ、イースターにたまごを飾るのか。それは、たまごの中にいのちがあり、いのちがたまごの殻を破って誕生します。それは、新しいいのちの誕生であり、イエス様の復活の象徴とされたからです。

イエス様が処女のマリヤから生まれたことと、イエス様が死より三日目に復活されたことを信じることは、人間の努力や常識では理解できない出来事です。先ほどお読みしました聖書の個所は、イエス様の弟子のトマスのお話です。イエス様が死より三日目に復活され、弟子たちの前にその姿を現された時、その場にトマスはいませんでした。その後で、トマスは他の弟子たちに、イエス様が死より復活されて、我々の目の前にその姿を現されたことを喜びをもって告げられたのです。トマスはそれを聞いて彼らに言いました。25節「私は、その手に釘の後を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」次の日曜日、イエス様はトマスのためにもう一度、その姿を現され、トマスに言いました。27節「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28節トマスはイエス様に言いました。「私の主。私の神。」トマスはイエス様に何も言うことができずに、ただ、私の主。私の神と言うことで精一杯でした。そして、イエス様はトマスに言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか、見ずに信じる者は幸いです。」見ずに信じるということはどういうことでしょうか。それは神の約束を信じるということです。

旧約聖書にアブラハムと言う人がいました。アブラハムが神様と出会って、神様のことばに従って親族から離れ、神様が示す地に旅立ったのが75歳の時でした。その時まで、アブラハムと妻サラにはこどもがいませんでした。しかし、神様はこの時、アブラハムにあなたは多くの国民の父となることを約束されたのです。そして二人にこどもが与えられたのが25年後のアブラハム100歳、サラ90歳の時でした。二人は神様の約束を25年間信じて待ち望んだのです。もちろん、ある時は、神様の約束を疑い、アブラハムはエジプトの女奴隷ハガルを通して子を得ました。しかし、それは神様の約束の子ではありませんでした。また、二人にこどもが生まれる一年前、神様は御使いを通して二人に来年の今頃子供が生まれることを知らせましたが、アブラハム99歳、サラ89歳でしたから、そのような知らせを受けても二人は信じることができませんでした。サラはその話を聞いて笑ったとあります。しかし、神様の約束通り、一年後にこどもが二人に生まれたのです。そして神様はその子に「イサク」という名をつけるように言われました。イサクとは笑うという意味の名でした。

私も教会に来はじめたころ、イエス様が処女のマリヤから生まれたことと、そして、死んで三日目に復活されたことを信じることができませんでした。それどころか、処女降誕と復活を本気で信じている人がいるということに驚きました。また、クリスチャンと言う人々は頭がおかしいのではないかとさえ思いました。そんな私がなぜ、イエス様の処女降誕と復活を信じるようになったのかというと、決して、幻を見たとか、夢でお告げを受けたということではありません。聖書の他の個所で、神様は私たちを愛しているということばに、心惹かれたからです。私は、神様の存在は否定しませんでしたが、私が考える神様は、遠くに存在する神様で、一人の人間がどう生きるかなど関心がない神様で、ただ悪いことをした時だけ罰を与える怖い神様でした。しかし、聖書で教える神様は、私たちの髪の毛の数さえ知っておられ、私たちを愛し、共に人生を歩みたいと思っておられる神様であることを知りました。それから、そんな神様なら信じてみたいと思いました。そして、聖書を毎日読むようになり、聖書の学び会にも参加するようになりました。しかし、聖書を毎日読んだり、聖書を学んですぐにイエス様の処女降誕と復活を信じることができたわけではありません。イエス様の処女降誕と復活を信じたいと思っても、どうしても常識がじゃまして信じることができませんでした。しかし、ある時、ふと心に浮かんだことばがありました。それは、「イエス・キリストは神の子」ということばです。頭ではイエス・キリストは神の子と信じていても、心の中では信じていませんでした。心の中で、拒否し受け入れることができませんでした。しかし、ある時、イエス・キリストは神の子とだという思いが心からわいてきました。それは、神様の力でした。今まで、イエス・キリストを私たちと同じレベルの人間としか理解できていませんでした。人間が処女のマリヤから生まれることはできないし、死んで復活することもできません。しかし、聖書が言うようにイエス・キリストが本当に神の子なら、処女のマリヤから生まれることも、死んで三日目に復活することも可能だと信じることができたのです。私が処女降誕と復活を信じることができなかった理由は、イエス・キリストを神の子と受け入れなかったことにあったのです。聖書の中では何度でもイエス・キリストを神の子と紹介しています。その聖書のことばをことば通り信じるか、信じないでイエス様を人として理解するかは大きな違いです。しかし、このイエス・キリストを神の子と信じることは人間の知恵や力ではできないことです。ただ、神様の助けがあるときに私たちははじめて、イエス・キリストを神の子と信じることができるのです。

イエス・キリストを神の子と信じることは、天国に迎え入れられるというだけではありません。イエス・キリストを信じるということは、この地上にあって神と共に歩むということです。「あしあと」といいう有名な詩があります。この詩で作者は、悲しみの時、苦しみの時には足跡が一つであるのを発見しました。そして、神様はどうして、苦しみの時、悲しみの時には、私と一緒にいてくださらなかったのかと問いかけました。しかし、神様は、その一つの足跡はわたしの足跡であり、苦しみの時、悲しみの時にあなたを背負って歩いたから、足跡が一つだったと教えてくださったのです。楽しい時や順調な時は神様が共におられることを信じますが、苦しみの時や悲しみの時は、神様を見失ってしまいます。しかし、たとえ私たちが神様を見失ったとしても、神様は約束通り私たちと共におられるお方です。私たちは明日の事も一年先のこともわからない者です。しかし、神様はすべてをご存知の上で私たちと共に人生を歩んでくださいます。イエス・キリストを神の子と信じるということはそういうことです。マタイの福音書11章28章~30節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」