イエスの復活と再臨

「イエスの復活と再臨」コリント人への第一の手紙15章12節~26節

いよいよイースターの日が近づいてまいりました。今日は、イエス様の復活と私たちとの関係について考えます。先ほどお読みしましたコリント人への手紙第一、15章12節からの個所は、パウロがコリントの信徒に対してキリストの復活と私たちの復活について教えられた個所です。問題となっているのは、コリントの信徒たちはイエス様の復活は信じていても、自分たち(死者)の復活を信じていないことにあります。パウロはイエス様の復活を20節「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と教えています。「初穂」とは畑にできた最初の作物のことで、次々に他の作物も実を結びます。パウロはこのたとえをとおして、キリストが復活されたのは、私たちの復活の初めのしるしであると教えているのです。ですから、キリストの復活と私たちの復活とは深い繋がりがあります。また、パウロは逆説的に、もし、あなたがたが考えているように、死者の復活がないとしたら、キリストの復活もあり得ないことになってしまい、そうするなら、私たちはうそつきとなり、私たちの宣教も実質のないものになってしまう。それほど、キリストとの復活と私たちの復活は強く繋がっていること教えているのです。

では、私たちはどのように復活するのでしょうか。パウロは続いて、35節から私たちの復活について教えています。40節「天上のからだ」があると教えています。41節「朽ちないものによみがえる」44節「血肉のからだから御霊のからだに変えられる」イエス様は復活されたとき、それは、霊魂だけではなく体を伴った復活でした。手足、わきばらには傷跡が残されていました。また、イエス様は、壁を通り抜けて弟子たちの前に姿を現されました。天上のからだとは、見た目には私たちとかわりませんが、この世の自然に支配されない特別なからだに変えられるのです。

では、私たちはいつ、復活するのでしょうか。パウロは52節でこのように教えています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」イエス様も弟子たちにこのように教えています。マタイの福音書24章30節31節「そのとき、人の子(イエス様)のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのをみるのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」つまりそれは、イエス様の再臨のときです。

では、それまで死者の魂はどこに行くのでしょうか。ルカによる福音書23章39節からイエス様が実際に十字架に着けられた場面が描かれています。ここでイエス様と同じように十字架に着けられた犯罪人が二人いました。そのうちの一人は、イエス様に悪口をあびせました。しかし、もう一人は違いました。犯罪人のもう一人は、自分の罪を認め、イエス様が救い主であることを信じて、イエス様に、42節「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。彼は確かにこの地上で助かることを求めたのではなく、イエス様の国(御国)に入ることを望んだのです。彼に対してイエス様はこのように言われました。43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスとは厳密には天の御国ではありません。新しい天の御国は、イエス様が再臨なされた後に天から下ってきます。その国は、永遠の国で、神様と共に永遠に暮らす天国の事です。

イエス様は、先ほどの24章で世の終わりについてお話になさいましたが、その続き25章では、世の終わりについて三つのたとえを用いてお話しになられました。その結論が、13節「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」目を覚ましておくとは、その時が、いつ来てもいいように備えておくということです。それは、イエス様の再臨の時に備えることであり、自分の最後の時を備えるということです。人はいつか地上での生涯を終える時が来ます。その時が、いつ来てもいいように心の準備をしておくことが大切なことです。

ルカの福音書15章にイエス様の有名なたとえ話「放蕩息子」のお話があります。ある時、下の息子が、お父さんに将来頂くはずの財産を要求し、その財産を手にすると、すぐにその息子は遠くに旅立ってしまいました。息子は一人暮らししながら、その財産を湯水のように使い果たし、一文無しになってしまいました。そこでしかたなく、豚の世話の仕事をしますが、お腹がすいて、豚のエサで腹を満たしたいほどでした。そこで、彼はお父さんとの豊かな生活を思い出し、父の家に帰る決心をしました。ところが、家に近づくと、父が息子に気が付き、彼に走り寄り、抱きしめ、息子のために宴会を催したのです。息子はぼろぼろの姿であったと想像します。それでも、父は息子の帰りを喜び、宴会を催したのです。ここにイエス様は、父の愛を通して、神様の愛を描いたのです。神様は私たちが罪人のままで、神様の所に帰って来るのを待っておられるのです。私たちの魂はどうでしょうか。神様のもとに行く準備はできているでしょうか。死後の行くべき場所を知らない人の死は苦しみであり、恐れです。しかし、私たちは、行くべきところを知っています。神様は私たちを喜んで迎えてくださいます。死は終わりではなく、永遠の世界への旅立ちです。また、天国において再開できる場所です。魂の帰る場所を持つものは幸いなものです。