冤罪(えんざい)

「冤罪(えんざい)」マタイの福音書26章59節~66節

週報のタイトルに「冤罪(えんざい)」という文字を使いました。冤とは、ぬれぎぬのことで、無実にもかかわらず、罪に定められたことを意味します。今日は、イエス様の裁判について聖書から学びます。イエス様の裁判こそ、冤罪であり、イエス様は無実でありながら死刑の判決を下されたお方です。なぜ、イエス様は無実であるのに死刑の判決が下り、十字架に付けられて殺されてしまったのでしょうか。

1、 祭司長、ユダヤ人議会による宗教裁判。

当時、ユダヤの国はローマ政府によって支配されており、公に人を死刑にする権限を持っていませんでした。祭司長、律法学者たちが恐れたのは、イエス様の存在だけではなく、イエス様の教える新しい教えに対しても、恐れを感じていました。それゆえ、イエス様を殺すだけではなく、イエス様の教え自体も葬る必要があったのです。イエス様一人をひそかに殺すことは彼らにとって簡単なことでした。それよりも、もっと難しいことは、イエス様の教えを否定することでした。そのためにイエス様の教えが、間違っていることを公に示す必要があったのです。なぜなら、この時、多くの人々がイエス様の教えに耳を傾けていたからです。また、律法学者の教えよりも、権威があると、人々が認め始めていたからです。

そのために、祭司長、律法学者たちは、イエス様を捕らえ、ユダヤ教の裁判に訴えたのです。聖書を読むなら、彼らは初めからイエス様を死刑にするために捕らえ、偽証者まで準備していたとあります。しかし、それでもイエス様の不正を明らかにすることができませんでした。そこで、大祭司はイエス様に言いました。63節「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエス様は彼にこのように答えました。64節「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」イエス様は大祭司の質問に、自分が神の子であることを認めました。当時、自分を神の子、神と等しい者と宣言することは、神を冒?する大きな罪で、死刑とユダヤの国では定められていました。そのことを大祭司は知っていたし、イエス様も知っているはずでした。イエス様がここで、自分は預言者であるとか、神様から遣わされた者であると答えたなら、大祭司はイエス様に死刑の判決を下すことはできませんでした。イエス様もそのことは知っているはずなのに、大祭司の陰謀のままに、自分は神の子であることを認められたのです。しかし、それは真実でもありました。イエス・キリストこそ、神の子であり、ご自分を神の子と宣言しても神を冒?したことにならない唯一の存在だったのです。イエス・キリストは本当の神の子であられたのに、ユダヤ人がそれを信じることができずに、イエス様を無実の罪で死刑の判決を下したのです。これこそ、冤罪だったのです。

2、 ローマ総督ピラトによる裁判。

祭司長、律法学者たちは、イエス様の教えが間違っていることを世界中に知らせるために、ローマ総督ピラトを利用したのです。イエス様を公に殺すためには、ローマ総督ピラトの許可が必要でした。また、十字架に付けられて殺されることは、呪われた者として、その家族も、世間から冷たい仕打ちを受ける恐ろしい刑罰です。祭司長、律法学者たちは、イエス様を十字架に付けて殺すことによって、イエス様を呪われた者とし、イエス様の教えさえ、呪われた教えとして葬り去ろうと考えたのです。<br>
ローマ総督ピラトは優秀な人物で、祭司長、律法学者たちが妬みでイエス・キリストを訴えてきたことに気付いていました。そこで、ピラトはイエス様を何とか釈放しようと試みたのです。ピラトは、祭りの慣例として、罪人を恩赦し釈放していました。その制度を利用してイエス様を釈放しようと考えたのです。そこで、ピラトは強盗と殺人の罪で捕らえられたバラバと、イエスとどちらを釈放したいのかと民衆に問いかけました。当然、ピラトは「イエスを」という声を期待したのですが、祭司長、律法学者たちは、民衆を扇動して、「バラバを」と叫ばせたのです。ピラトには信じられない答えでした。また、ピラトの弱点は、民衆に暴動を起こされることでした。総督の地位は、ローマ政府から派遣された、警視総監のような地位です。ここで、暴動を起こされると、責任を負わされ失脚する恐れがあったのです。祭司長、律法学者たちはピラトの弱点を良く知っていました。そこで、群衆を扇動して、イエスを釈放するなら暴動を起こすようなそぶりを、ピラトの前で示したのです。ピラトにとっては一番迷惑なことです。ピラトにとって、イエスの命よりも自分の命のほうが大切ですから、ピラトはイエス様が無実であるのを知っていながら、十字架に付けて殺すことを祭司長、律法学者たちに許可し、イエス様を引き渡してしまったのです。ここでもまさに、冤罪の裁判でした。

イエス様の裁判から私たちが学ぶことは何でしょうか。

(1) イエス・キリストは無実の罪で殺されたこと。(冤罪)
(2) イエス様は死刑の判決を逃れようとすれば、いくらでもその方法はあったにも関わらず、自ら死刑の判決を受けられた。

ということです。普通なら、考えられないことです。しかし、それが神様のご計画でした。十字架の死がなければ、イエス様の死からの復活もなかったのです。祭司長、律法学者、また、その背後の悪魔の計画も、イエス・キリストを十字架で殺すことでした。それによってイエス様だけではなく、イエス様の教えも完全に葬る予定でした。彼らの計画は完全に成功しました。イエス・キリストは呪われた者として十字架に付けられて殺されたのです。弟子たちも絶望し、イエス様から離れていきました。しかし、その後に、神様は逆転の秘策を持っていたのです。それがイエス様の死からの復活です。人は死んでこの世の人生は終わりですが、神の子は死に支配されるお方ではありませんでした。神の子イエス様だからこそ死より三日目に復活されたのです。弟子たちは、復活されたイエス様を見て喜びました。その弟子たちが、イエス様の復活を世界中に知らせ、教会が世界中に広げられたのです。悪魔の計画は神様によって完全に踏み砕かれました。もし、イエス・キリストが死より復活されなかったなら、キリスト教は、悪魔や祭司長、律法学者たちの計画通り葬り去られていたことでしょう。現に、弟子たちはイエス様の復活を力強く証したと聖書にあります。イエス様の復活なくしてキリスト教の誕生はあり得ませんでした。また、私たちの救いの完成もあり得なかったのです。そういう意味で、イースターは私たちクリスチャンにとって、とても大切な記念日なのです。