パウロの強さの秘密

「パウロの強さの秘密」コリント人への手紙第二12章7節~10節

元プロ野球選手の清原選手が覚せい剤使用で逮捕されました。清原選手は野球界でも尊敬される存在で、彼の逮捕は野球ファンに大きな悲しみを与えました。逮捕される以前の清原選手は自信に満ちた強いイメージでしたが、逮捕されたときの映像は、弱々しくみじめに映りました。彼の本当の姿、特に内面はどうだったのでしょうか。スポーツ選手は内面(メンタルな面)が強くなければ試合に勝つことはできないと言われます。有名になれば誘惑も多くなります。また、ストレスも多く受けるでしょう。そのようなストレスから逃れるために、覚せい剤を使うこともあったのかもしれません。

人間の真の強さとは何でしょうか。旧約聖書にヤコブ(後にイスラエルと呼ばれる)という族長がいました。彼には双子の兄がいて、兄エサウは体格も立派で、狩りを好み族長にふさわしい人物でした。それに比べ、ヤコブは見た目にひ弱で、家の中で料理を作る内向的な青年でした。しかし、ヤコブには知恵があり、人をだますことにたけていました。父イサクは見た目に立派なエサウを族長にと考えていました。しかし、ヤコブは、兄エサウをだまし、また、目の弱った父をだまして、神様の特別な祝福を兄から奪い取ってしまいました。それにより、兄に憎まれたヤコブは兄の怒りを逃れ、叔父のラバンのもとに身を避けたのです。しかし、叔父のラバンはヤコブよりも狡猾で、ヤコブをだまして20年も奴隷のように利用したのです。ヤコブはラバンの二人の娘と結婚しましたが、20年後にヤコブは二人の妻を連れて、ラバンのもとから逃げ出しました。そして、ヤコブは生まれ故郷に帰ろうとしますが、20年たっても兄の怒りが怖くて家に帰ることができませんでした。そんなときに、ヤコブは、一人神様と格闘したのです。そして、その格闘の中で、ヤコブは神様にしがみつきました。この神との格闘の結果、ヤコブはもものつがいが外され、歩くのに杖が必要な者になってしまいました。しかし、ここで、ヤコブは「イスラエル」という名を神様から頂いたのです。その意味は、「神と戦い、人と戦って勝つ」という意味だと聖書に記されています。この神との格闘の後、ヤコブの人格は大きく変わりました。以前は、自分の知恵に頼り、人をだます者でしたが、神と格闘した後は、神様に祈る敬虔な人格へと変えられたのです。

新約聖書にパウロという人物が登場します。パウロは世界中にキリスト教を広めた重要な人物です。しかし、以前はキリスト教を激しく迫害する律法学者でした。彼の家は豊かで敬虔なユダヤ教の家庭でした。彼自身もユダヤ教に熱心で、エルサレムで最高の教育を受け、有名な律法の学者から教えを受けました。将来は立派なユダヤ教の学者になると期待された人です。パウロは、旧約聖書を研究し、その戒めを守ろうと努力しました。しかし、彼の内側には罪の意識があり、どうしても、完全に神様の戒めを守ることができませんでした。そんな、葛藤と苦しみの中で、パウロは復活したイエス様と出会ったのです。パウロがキリスト教を迫害したのは、イエスの弟子たちが自分の師であるイエス・キリストが死者から甦ったことを宣べ伝えていたからです。死人の復活を信じないパウロは、イエスの弟子たちが信じていることは間違いで、神を冒?する教えとしてキリスト教を迫害したのです。しかし、パウロはその復活したイエス・キリストと出会ったのです。彼は謙虚に自分の間違いを認め、洗礼を受け、イエスの復活を世界中に広める者となったのです。パウロは、神様から悪霊を追い出し、病をいやす力を与えられ、多くの人々を癒しました。ところが、パウロ自身にも痛みがありました。そのため、それを取り除いてくださいと三度も神様に祈ったとあります。しかし、神はその苦しみを取り除かれませんでした。神様の応答は9節「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。」というものでした。それゆえ、パウロは「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と言ったのです。自分の思い通りに何でもできれば、高慢になり自分を神のように誇ってしまいます。そこで、神様は、パウロが高慢にならないために、弱さを与えられたのです。完璧な人間はいません。また、罪を犯さない人間もいません。それゆえ、人には神様の赦しと助けが必要なのです。

イエス様の時代のパリサイ人たちは、自分たちが努力して律法を守ることによって、神に認められ天の御国に入ることができると教えました。しかし、パウロはどんなに努力しても、律法の教えを守ることができない自分に気が付いていたのです。そんなときに、パウロは復活されたイエス様と出会い、自分の罪がすでに赦されたことを知り、イエス・キリストを神の子と信じる信仰を持つことができたのです。私たちはどうでしょうか。以前の私は、自分が罪人であるとは思いもしませんでした。正しい人間として生きてきたつもりでした。しかし、聖書の基準に合わせるならば、自分の罪を認めざるを得ませんでした。また、自分の力を信じ、人に頼ってはいけないと教えられてきました。ましてや、神様(宗教)に頼る者は弱い人間で、自分の力で将来を切り開いていかなければならないと教えられてきました。しかし、人生は思い通りには行かず、失敗や挫折を繰り返しました。そんな中で、神様と出会い、人は自分の力だけで生きているものではなく、神様の助けがあることを学びました。目に見えない神様に頼ることは、不安もありましたが、少しずつ神様への信頼が増していきました。祈りは、神様が人間に与えてくださった恵みです。それゆえ、誰でも困った状況に置かれると、神様に助けを求めます。問題は、その多くの人々が誰に助けを求めているのか知らないことです。私たちは聖書を通して、神様は天地の創り主であり、今も全世界を支配しておられる方であることを知っています。また、その神様が私たちの髪の毛の数さえ知っておられるほど、私たちを愛し、私たちに関心があることを知っています。それなら、どうして、私たちは神様に頼らないで生きることができるでしょうか。神様への信頼の大きさが、その人の信仰の大きさに比例します。私たちはどれだけ神様を信頼し、その生涯を神様に委ねているでしょうか。ヤコブの人生を変えたもの。パウロの人生を支えたもの。それは、神様への信頼です。目に見えない神様に信頼することは難しいことですが、聖書のことばを信じて、神様に頼り、神様を信頼して歩んでいきたいと思います。