人を生かす神のことば

「人を生かす神のことば」マタイの福音書8章5節~13節

先週のお話の中で、「人を殺してはならない」という神様の戒め(律法)について、律法学者パリサイ人たちは、文字通り、「人を殺すものは裁きを受けなければならない」と教えていました。しかし、イエス様はさらに、兄弟に腹を立てる者、兄弟に「能なし」「ばか者」と言う者も、殺人と同じ裁きを受けると教えました。確かに、実際に人を殺さなくても、言葉で人を傷つけ、ある場合には死に至らしめることもあります。たとえ、殺すつもりで言ったことばではなくても、言われた人にとっては、刃物で体を傷つけられるよりも大きな傷を心に受けることがあります。ことばとは、それほど、力のあるものです。また、逆に、先生や友人に言われた言葉で、励ましや希望を持った経験もあるのではないでしょうか。人のことばに、そのような力があるのならば、神様のことばはどれほど、私たちを勇気づけ、また、励ましのことばになることでしょう。

ヨハネの福音書21章15節からのお話で、復活されたイエス様は、自分を三度も知らないと言って、自分との師弟関係を否定したペテロに対して、「あなたはわたしを愛しますか」と三度、問いかけました。ペテロにとって、イエス様を裏切った自分としては、つらい場面です。ここで、イエス様は一度も、ペテロを責めることばを使いませんでした。それどころか、自分を裏切ったペテロに「わたしの子羊を飼いなさい。」と三度も言われたのです。この言葉の中に、イエス様がすでにペテロを赦しているというメッセージがふくまれていたのです。この後、ペテロは12使徒のリーダーとして、イエス様のために命を懸けて働く者になりました。

マタイの福音書8章5節からのお話は、ルカによる福音書7章からのお話と同じ場面を描いています。このお話のカギとなることばは「権威あることば」です。マタイの福音書では、百人隊長がイエス様に自分のしもべの病(中風)を治してくださいと直接、お願いしていますが、ルカの福音書では、百人隊長がユダヤの長老に頼んでイエス様にお願いしています。二つのお話には違いがありますが、このことによって、この百人隊長が、ただの異邦人ではなく、ユダヤ教に好意を持ち、会堂をたてたほど、ユダヤ人を愛し、ユダヤ教に関心がある人であることがわかります。それゆえ、マタイの福音書で、イエス様が、百人隊長の家に行こうと言われたとき、百人隊長は、イエス様を自分の家に迎える資格は私にはありませんと、イエス様を自分の家に迎えることに遠慮をしたのです。それは、ユダヤ教の教師たちが、異邦人と交わることや、異邦人の家に入ることを禁じていたからです。この百人隊長はそのことを知っていたので、自分は異邦人でユダヤ人であるイエス様を迎える資格がありませんとイエス様に答えたのです。しかし、この百人隊長はイエス様におことばをくださいとお願いしました。なぜなら、この百人隊長はイエス様からおことばをいただくだけで、しもべの病はいやされると信じていたからです。イエス様はこの百人隊長のことばに驚きました。なぜなら、他のユダヤ人たちは、イエス様に病のいやしのために自分の家に招いたり、または、患部にさわってくださいとお願いしていたからです。それなのに、この異邦人の百人隊長は私の家に来なくても、おことばをくださるだけでしもべの病はいやされると信じていたからです。なぜ、彼はそのような信仰を持つことができたのでしょうか。それは彼が軍人であったからです。軍隊にとって上官の命令は絶対です。上官の命令に逆らうことは死を意味していました。それほど、皇帝や王様の命令は絶対的な権威を持っていました。百人隊長はそのことをよく知っていたのです。そこで、人間の権威がそれほど力があるのならば、神の子であるイエス様の権威はそれ以上だと、この百人隊長はイエス様の権威が神様から来ていることを理解していたのです。それゆえ、彼はイエス様に、おことばだけを求め、イエス様のことばだけで、しもべの病はいやされると信じたのです。

私たちはイエス様のことば(聖書のことば)を、この百人隊長のように絶対的な権威のある言葉と信じているでしょうか。マタイの福音書19章にお金持ちの青年が「永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいでしょうか」と尋ねた場面があります。イエス様は彼に、「あなたの持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。すると青年は悲しんで去っていったとあります。最後に、この人は多くの財産を持っていたからですということばで終わっています。さらにイエス様は続けて弟子たちに言われました。23節、24節「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいることはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちたちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」イエス様の時代、ユダヤの国においてラクダは大きな動物の代表でした。それに、比較して、針の穴は小さいものの代表としてイエス様は用いられました。その意味は、お金持ちほど、天の国には入るのが難しいと言う意味です。なぜなら、お金持ちほどお金の権力に支配されているからです。また、イエス様は弟子たちに二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え富にも仕えることはできませんと言われたのです。私たちはお金の権威と神様の権威とどちらに仕えているでしょうか。ある人が「クリスチャンは偽善者だ」と言いました。それは、教会では、聖書のことばは神様のことばだと信じていながら、実際の生活では、神様に頼らないで、お金に頼っている人が多いからです。耳の痛いことばです。私たちの実際の生活においてお金は大切なものです。しかし、私たちはお金の権威と、神様の権威どちらを信頼し頼っているでしょうか。

以前、私は一度だけ、献身をやめようと思ったことがあります。それは、私が牧師になるために神学校に行くことを決心した後の事です。ある日、青山学院の学生が救われ、彼も神学校に行き牧師になることを決めました。彼は、背も高く、学歴も高く、ハンサムで、英語が得意で、ギターが弾けて、賛美も上手でした。私は、彼と自分を比較して、何一つ自分に良いものがないことに気が付きました。彼は立派な牧師になり、自分が牧師になっても何の働きもできないのではないかと考えて、神学校に行くのをやめ、この教会を去り、一人静かに信仰の道を歩もうと考えたのです。そのことで一か月ほど悩みました。しかし、教会を去ることを決めた夜に、神様のことばが私の心に響いたのです。からし種のおはなしです。からし種は、小さい種だけれど、地に蒔かれると大きな木になり、空の鳥が宿るようになるというお話です。私は、その時、自分はまだクリスチャンになって一年ぐらいしかたってないのを思い出しました。それは、からし種が蒔かれたばかりと同じです、これから、神様が私を大きな木に成長させてくださるということに気が付かせてくださったのです。その時から、私は人と自分を比較することをやめました。そして、現在の自分があります。あの時、神様のことばが私の心に響かなければ、現在の私はありません。神様のことばは、実際に力があり、人に生きる力と希望を与えるものです。もし、聖書のことばが、昔の人によって書かれた言葉であるなら、どこに力があるでしょうか。聖書は神のことばであり、その神様は、今も生きて、世界を支配されておられるお方です。神様は、聖書のことばを通して、今も、私たちの心に語りかけています。それゆえ、聖書のことばは、今も神様の権威と力があるのです。