神とイエスと悪魔

「神とイエスと悪魔」マタイの福音書4章1節~11節

最近、悲惨な事故、また、テロや恐ろしい事件が身近な所で起こるようになりました。ある人に、神様がおられるなら、どうして戦争や貧困が無くならないのかと質問されたことがあります。確かに、世界は神様が支配されておりますが、この世には、神様に敵対する悪魔が存在しているからです。悪魔が何時、誰によって作られたのか聖書には書かれていないので私たちにはわかりません。しかし、悪魔は人間が想像する実体のない存在ではなく、神のように霊的力を持ち、私たちの心を支配しコントロールする力も持っています。しかし、聖書が私たちに教えることは、神様と悪魔は対等な存在ではなく、悪魔は神様の許された範囲しか働くことができないということです。悪魔は、元は天使の長であったが神のようになろうとして高慢になり、地に落とされ悪魔となったと言われています。悪魔はすでに神に敗北した存在なのです。悪魔とその働きについて学びます。

今日、お話しする荒野でイエス様が悪魔の誘惑を受けられるお話は有名な個所です。1節を見ると、この荒野での誘惑は御霊の導きであると記されています。イエス様は公に宣教の働きをする前に、悪魔から誘惑を受け、それに勝利しなければならなかったのです。

ここで、イエス様は悪魔から三つの誘惑を受けられました。

1、 石がパンになるように命じろ。
この時、イエス様は40日の断食の後ですから、空腹を覚えておられました。イエス様の周りにあるのは石ころばかりです。悪魔はその状況を利用して「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言われたのです。悪魔の計画は、ただ単純にイエス様が神の子なら、石をパンに変える力があるかどうかを試したわけではありません。悪魔は、自分の必要のため(空腹を満たす)ために、神の奇跡の力を利用すればよいと誘惑したのです。イエス様は4節「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによる」と書いてあると、旧約聖書申命記8章3節の御ことばを通して、悪魔の誘惑を退けられました。モーセがイスラエルの民をエジプトから助け出された後、イスラエルの民はカナンの地を征服するために荒野へと入っていきました。しかし、彼らは神様のことばに従わず、不信仰のゆえに40年も荒野を彷徨い歩く者となってしまったのです。神様は、そんな彼らのために、毎日、マナという不思議な食べ物を与え続けました。イスラエルの民は神様から毎日、与えられる食物、マナで40年も荒野で生活することができたのです。それは、イスラエルの民が、神様によって生かされている(養われている)ことを学ぶ大切な時だったのです。イエス様の力からすると、石をパンに変えることは簡単なことでした。しかし、イエス様が人としてお生まれになられたのは、私たち罪人を救うためです。その目的以外(自分の空腹を満たすこと)に、神様の奇蹟を行うことは、神様から離れ、自分のために生きることを意味しました。悪魔はそれによって、神様の救いの計画を台無しにしようと誘惑したのです。しかし、イエス様はその計画を見抜いて、申命記の御ことばを通して、第一の誘惑を退けられたのです。

2、 神殿の頂から飛び降りろ。
悪魔はイエス様を神殿の頂に立たせ、下に身を投げてみなさいと言いました。それは、旧約聖書詩篇のことばに「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」と書いてあるからと試みたのです。しかし、イエス様も旧約聖書申命記6章16節の御ことば「あなたの神である主を試みてはならない。」で悪魔の誘惑を退けられました。この個所から、悪魔も神様のことば(旧約聖書)を知っていることがわかります。ですから、私たちも正しく聖書を理解していなければ、知らない間に悪魔に利用されていることがあるということです。エホバの証人というキリスト教の異端の教えがありますが、彼らは私たち以上に熱心に聖書を勉強しています。しかし、彼らは組織の言うとおりに、そのままを教え込まれます。疑問を持つことは許されません。彼らは知らない間に組織の言いなりになってしまうのです。それを、マインドコントロールと言います。この誘惑はイエス様の宣教のあり方を誘惑したものです。イエス様は人々に自分が救い主であることを理解させるために、奇蹟を行ったことはありません。それどころか、人々の病をいやされても、人に言わないように戒められました。それは、奇蹟によって人々が自分を救い主と信じることがないようにするためでした。しかし、悪魔の計画はその逆で、人々の前で、驚くような奇跡を行い、人々が自分を救い主であることを認めさせなさいという誘惑です。イエス様が十字架に付けられたとき、人々は十字架からおりてみろ、そうしたら救い主と信じてやるとイエス様に暴言を吐きました。実際に、イエス様の力なら、十字架から降りることは簡単なことでした。もし、そうしたならば、人々はイエス様を救い主と信じたでしょうか。また、そうであるならば私たちの救いは完成されなかったのです。

3、 私(悪魔)を拝むなら、この世の富と栄華を与える。
今度は、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れていき、この世のすべての国々とその栄華を見せて、もし、ひれ伏して私(悪魔)を拝むなら全部をあなたに差し上げましょうと誘惑しました。イエス様は引き下がれサタンと言って、申命記6章13節「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」という御ことばを通して悪魔を退けられました。この世の栄華とはどんなに素晴らしいものでしょう。人間ならば誰でも欲しいものです。しかし、イエス様はこの地上で王として崇められるために来られたお方ではありません。もし、そうであるならば、悪魔の力を借りなくても全世界を支配することも可能なお方です。もし、私たちがイエス様のように、この世の栄華を見せられ、私を拝むならこのすべてを与えようと言われたら、悪魔の前にひれ伏すのではないでしょうか。私たちが、何を求めているのかを試される誘惑です。

初めに悪魔から誘惑を受けたのはアダムの妻エバでした。彼女は夫のアダムから園にある木の実はすべて食べてよいが、善悪を知る知識の実から取って食べてはいけないという神様の戒めを聞いていたと思います。それを知った上で悪魔はエバに近づいて彼女を誘惑したのです。蛇は彼女に言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」神様の戒めに疑問を投げかけました。彼女は蛇に「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について神は、『あなたがたは。それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」と答えました。悪魔は、きっぱりと神様のことばを否定しました。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」とエバを誘惑したのです。初めに悪魔は、天使の長であったが神のようになろうとして高慢になり、地に落とされ悪魔になったと言いました。悪魔は同じように人間を神から引き離そうと、エバを誘惑したのです。その結果、二人は神様の戒めを破り、善悪に知識の木の実を食べてしまいました。しかし、二人は神のようになるどころか、罪を犯しエデンの園から追い出されてしまったのです。そして、この神と人間との隔ての壁を壊すために誕生されたのがイエス様です。悪魔は、この救いの計画を台無しにするために、イエス様に近づいたのです。荒野での誘惑の時、イエス様は悪魔の誘惑を御ことばによって退けられました。しかし、それで悪魔はあきらめたわけではありません。パリサイ人や群衆を利用してイエス様を十字架に付けて葬ろうとしました。しかし、イエス様は死より三日目に復活して神様の計画、救いを完成し、父なる神様の所に帰って行かれました。悪魔はそれでもあきらめずに、今度は、私たちを誘惑して神様から引き離そうと働いているのです。イエス様が受けた三つの誘惑は、私たちにも関係しています。一番目の誘惑は、自分の必要のために、神様の力を使わせようとさせた誘惑です。私たちも、自分に与えられた才能を自分の名誉のため自分の利益のためだけに使うなら、高慢になり神を必要としない人間になってしまいます。また、二つ目の誘惑のように、私たちが、奇蹟を強調し人々を驚かせ、人の関心を得ることを第一とするなら、私たちの働きは、他の新興宗教と同じになってしまいます。三つ目の誘惑も、世界を支配し、自分の名を上げることが人生の目的となるなら私たちはすぐに神様から離れてしまいます。どの誘惑も、魅力的で私たちの心は動いてしまいます。そのために、イエス様は私たちに見本を示してくださいました。私たちが悪魔の誘惑に勝つ唯一の方法は神様のことば、御ことばだけです。聖書は御ことばを剣に例えています。御ことばによってのみ戦うなら、私たちでも悪魔に勝利することができるのです。