救い主の父と母

「救い主の父と母」マタイの福音書1章18節~25節

先週は、アドベントの第一週で、「救い主の誕生の準備」という題でお話ししました。聖書によると、神の子イエス様の誕生は、初めの人アダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追い出された時からすでに、神様は人を救うためにイエス様を人としてこの地上に遣わすことを決められたことがわかります。それだけではなく、神様は私たち人間が救いの意味がわかるように、長い時間をかけて救いの準備してくださいました。具体的には、ノアの箱舟、アブラハム、モーセ、旧約聖書の預言者、バプテスマのヨハネなどでした。

今日は、イエス様の誕生に欠かすことのできない、母マリヤと父ヨセフについて学びます。神様は、なぜ、救い主(幼子)を託すという大切な働きを、若い二人マリヤとヨセフにゆだねられたのでしょうか。救い主の父と母に選ばれたマリヤとヨセフについて学びます。

1、 救い主の父として選ばれたヨセフ。

ヨセフが救い主の父と選ばれた理由は二つあります。

(1) ヨセフがダビデの子孫であったから。
マタイの福音書を書いたイエス様の弟子のマタイは、イエス様をユダヤ人に救い主として紹介するために、最初にアブラハムの系図から書き始めました。それは、当時、ユダヤ人は自分が誰であるかを人に紹介するときに、自分の系図を用いたからです。ユダヤ人社会では、自分が誰の子孫であるかということが大変重要でした。また、旧約聖書において、救い主はダビデの子孫から生まれると言い伝えられていました。ダビデはイスラエルの国の偉大な王で、神様はこのダビデの王座を永久に続くと約束されました。この神様の約束のことばが代々伝えられて、人々は、ダビデの子孫から生まれる救い主を待ち望むようになったのです。

(2) ヨセフの信仰。
マリヤとヨセフは法律では夫婦として認められていましたが、実際的には婚約状態でした。婚約期間は1年とされ、その後、正式に結婚式が行われ、二人の夫婦としての生活がはじまります。ところが、この婚約期間中にマリヤがこどもを宿していることがわかったのです。ヨセフにとっては信じられないことです。自分はまだマリヤと夫婦の生活を始めていない、それなのに、マリヤがこどもを宿したということは、自分の知らない誰かとマリヤが性的な関係を持ったということです。そして、そのことはユダヤの国では姦淫の罪を犯したことになり、姦淫の罪は重く死罪に当たる罪でした。この時、ヨセフは二つの選択が考えられました。1、マリヤを姦淫の罪で訴え死刑にすること。2、婚約を解消してマリヤを離婚することです。ヨセフはそれでもマリヤを愛していたので、彼女を傷つけないように、ひそかに離縁し彼女と別れることを考えていました。しかし、神様は主の使いをヨセフの夢の中に登場させ、マリヤのお腹に宿る子は、姦淫によるものではなく、聖霊による神様の計画であることを告げたのです。ヨセフはその主の使いのことばを聞いてどうしたでしょうか。彼は、主のことばを信じ、身重のマリヤを妻として受け入れたのです。ヨセフはどうして主の使いのことばを信じたのでしょうか。その背後には、ヨセフのマリヤに対する愛と信頼があったものと思われます。ヨセフはあの信仰深いマリヤが姦淫するなど信じられなかったでしょう。しかし、また、実際にマリヤのお腹にはこどもが宿っていることは否定できないことでした。誰のこどもなのか。その疑問に答えたのが主の使いのことばでした。マリヤは姦淫して子を宿したのではなく、聖霊によって身ごもり、そのことが神様の計画であることを信じることによってヨセフの疑問は解決されたのです。そこには、ヨセフのマリヤへの愛と、神様への信頼があったからです。ダビデの子孫だけなら、ヨセフの他にもたくさんいたはずです。しかし、神様はこの愛と信仰の深いヨセフだからこそ、救い主の父として幼子を託されたのです。

2、 救い主の母として選ばれたマリヤ。

マリヤの信仰についてはルカの福音書1章26節から詳しく書かれています。マリヤが救い主の母として選ばれたことは御使いガブリエルが直接、マリヤの前に現れて告げられました。マリヤは御使いの出現に驚きましたが,さらに、自分が救い主の母として神に選ばれたことに信じられませんでした。婚約期間であるマリヤにとって、自分が子を宿すなど考えられないことでした。また、マリヤがこの神様の計画を受け入れることによって、自分の将来が危険にさらされることがわかっていました。婚約中に身ごもれば姦淫の罪で殺されるか、ヨセフとの結婚がだめになることは明らかなことでした。しかし、マリヤは神様の計画を受け入れる決心をしたのです。そこには、マリヤの神様への信頼があったからです。

信仰とは何でしょうか。それは神様を信頼する。信用することです。この時、マリヤはこのヨセフとの関係を心配しましたが、必ず神様は最善の道を備えてくださるお方であることを信じたのです。その通り、神様はマリヤの婚約者であるヨセフにも働いてくださいました。神様を信じるとは、神様を理解するということではありません。信仰は人の理解を越えたところにあります。例えば、私はマリヤがどのようにして聖霊によって身ごもったのか、いまだに理解していません。私が教会に来初めの時、イエス様が処女のマリヤから生まれたことと、死んで三日目に甦ったことを信じることができませんでした。そんな非現実なことが起こるわけがないと初めから聞く耳がありませんでした。ところが、聖書を読むうちに少しづつ私の心は変化していきました。イエス様が本当に神の子であるならば、処女マリヤから生まれることも、死んで三日目に復活することも不可能じゃないと思うようになったのです。問題は、イエス・キリストが誰であるかということです。イエス・キリストが私たちと同じ人間なら、処女マリヤから生まれること、死んで復活したこともうそっぱちです。しかし、聖書が教えるように本当にイエス様が神の子なら、処女マリヤから生まれることも、死んで三日目に復活したことも事実です。また、それゆえ、私たちの罪も赦され、私たちが天国に迎えられることも事実となるのです。イエス様が死より三日目に復活して、弟子たちにその姿を現された時、弟子のトマスはその場にいませんでした。それゆえ、トマスは弟子たちの話を信じませんでした。イエス様はもう一度、トマスのために弟子たちの前にその姿を現され、トマスに言われました。ヨハネの福音書20章29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」神様の御心は、私たちが、処女降誕や復活を理解することではなく信じることです。また、神様は私たちがイエス様を神の子と信じることができるように聖書を与えてくださいました。私たちはこの目で神様を見ることはできませんが、聖書を通して心の目で神様を見ることができ、神様の御業、イエス様の処女降誕と復活も信じることができるようになるのです。