「わたしはいのちのパンです」

「わたしはいのちのパンです」ヨハネの福音書6章53節~58節

スポーツの秋、食欲の秋と言われます。今日は、霊的な食物についてお話します。先程のイエス様の言葉を聞いて皆さんはどう思われたでしょうか。60節にこの言葉を聞いた人々の反応が記されています。「弟子たちのうちの多くの者がこれを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられよう。』」66節「こういうわけで、弟子たちのうち多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」とあります。ユダヤ教には食べ物に対するきびしい戒律があります。そのようにきびしく食べ物を規制する人々にとって、人の肉を食べるとか人の血を飲むとは聞くに耐えないことばだったでしょう。実際に、初代教会の頃、人々は、キリスト教信者はひそかに人の子の肉を食べ、血を飲んでいるといううわさがあったそうです。

聖書のことばを断片的に解釈するなら、そのような誤解を生み出します。このお話しは、ヨハネの福音書6章で行われたイエス様の奇蹟、五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人の人々を満腹にした奇蹟から始められたイエス様の説教です。この時、イエス様のお話しを聞くために大勢の人々がイエス様の周りに集まっていました。イエス様はこの群衆を見られ、弟子たちにどこからか彼らのためにパンを買って食べさせようかと言われました。しかし、弟子たちにはそんなに大勢の人々に食べさせるパンなど持ち合わせがありませんでした。そこで、弟子たちが探しに行くと、少年が五つのパンと二匹の魚を持っていることがわかりました。そこで、イエス様は群衆を座らせると、先程の五つのパンと二匹の魚をとり、神様に感謝の祈りをささげ、弟子たちに人々に分けるように言われました。弟子たちが群集に配ると、男性だけで五千人の人々が満腹したのです。群衆はこのイエス様の奇蹟をとおして、旧約聖書に記された、荒野でモーセがイスラエルの民に行われた奇蹟を思い出したことでしょう。神様は荒野で食べ物が無い、イスラエルの民のために40年の間、マナという不思議な食べ物(パン菓子)を与え続けました。

イエス様のもとで、パンと魚を食べた人々はイエス様の奇蹟の力を見て、イエス様をモーセのような偉大な預言者として、熱狂的な態度でイエス様を受け入れようとしました。イエス様は彼らの態度を見て、彼らから身を引くため湖の反対側へと渡って行きました。イエス様がいないのに気がついた群衆は、イエス様を追って湖の反対側へとやって来ました。それを見たイエス様は群衆に言われました。26節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」27節「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子をすなわち神が認証されたからです。」群衆はイエス様に言いました。31節「私たちの先祖は荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からのパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」これに答えてイエス様は群衆に言われました。32節33節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」35節「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」47節~51節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを得ます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」そういう話の流れがあってイエス様は「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と言われたのです。ここでイエス様が言われた「人の子の肉を食べ、血を飲む」ということはイエス様を神の子と信じることを言い表したことばです。

では、イエス様を神の子と信じることがどうして、永遠のいのちを受けることになり、また、私たちの心が渇くことがなくなるのでしょうか。イエス様が言われた永遠のいのちとは、この地上で永遠に暮らすということではありません。神による最後の審判の時、私たちの罪はイエス様の十字架の贖いによって、すでに罪が赦されているので、神の裁きを受けること無く、天国で永遠に神と共に生きると言う意味です。では、心が渇くことがないということはどういうことでしょうか。元々、私たちは神様に創られたもの、神様に魂を与えられたものです。そういう意味では、私たちは神様から遠く離れた者ではなく、神様に近い存在でした。しかし、私たちが神様の臨在に近づけないのは、私たちが罪を犯し、神様から退けられたからです。しかし、神様は旧約聖書の中で、特別な人を選び彼らに近づいて来られました。それは、ノアやアブラハムのように。ところが、新約聖書の時代に入り、イエス様はご自身を信じる全ての者に聖霊を与えるという約束をして天に昇って行かれました。また、使徒の働きの中で、実際に弟子たちにイエス様が約束された聖霊が弟子たちの上に下ったことが記されています。イエス様の約束は、イエス様を神の子と信じる者に聖霊を与えるという約束です。聖霊は神様と同じ存在です。つまり、旧約聖書の時代は、神様が選ばれた特別な人しか神様に近づくことができませんでした。しかし、新約聖書の時代に入り、イエス様を信じる人の心の中に聖霊様が住んで下さいます。つまり、イエス様を神の子と信じる者と共に神様がいて下さるということです。イエス様は、私たちが失った神との親しい関係を十字架の死を通してもう一度、回復してくださったのです。以前、私たちは神様の存在は信じていても、その神様は遠くにいる神様でした。しかし、今、私たちはイエス様を神の子と信じることによって、神の愛を回復する者となったのです。天地の創り主であり、今も、天地の支配者である神様を父と呼び祈ることができるということは何とすばらしいことでしょう。心の不安、むなしさは神様の愛を信じることによって、心が満たされるのです。イエス様がマタイの福音書5章1節で言われた「心の貧しい者」とは心が空っぽの者と言う意味です。多くの人々は、この世の楽しみで心を満たそうとしますが、この世の物で心を満たすことのできない人、その人は神様の愛を求め、神様の愛で満たされる人です。それゆえ、イエス様はそういう人を「幸いだ」と言われたのです。この世の物はいつかすたれてしまいます。しかし、神様の愛は永遠に変わりません。この神様の愛を心にとどめる者こそ、真に幸いな人です。