神の悲しみを自ら体験したホセア

「神の悲しみを自ら体験したホセア」ホセア書1章1節~9節

教会に通い始め、聖書を読むようになったころ、旧約聖書は罪人を罰する恐い神様で、新約聖書は罪人を赦す愛の神というように同じ神様でありながら、旧約聖書と新約聖書で二つに分けて神様を理解していました。しかし、神学校で旧約聖書を正しく学ぶことによってそうではないことがわかりました。旧約聖書も新約聖書も同じ神様で、表現の仕方が異なっているだけで、旧約聖書も正しく読むなら、神様の赦しと愛が表現された箇所があることがわかったのです。ホセア書は旧約聖書でありながら、そのメッセージは新約的で神の赦しがイスラエルの民に語られた聖書の箇所です。

ホセアが預言者として活躍したのはヤロブアム王の時代とされています。しかし、このヤロブアム王は、ソロモンの後、北イスラエルと南ユダ王国の二つに国がわかれた時代のヤロブアム王ではありません。紀元前780年代に活躍したヤロブアム二世と呼ばれる王の時代です。ヤロブアム二世は王としては有能で、外国との貿易で国は大きく繁栄しました。しかし、国が豊かになると国民は堕落し、イスラエルの神は忘れられ、人々は外国の神々を礼拝し、イスラエルの国を偶像で満たした時代でした。その後、ヤロブアム二世が亡くなると、国の力が弱まり、北の国アッシリヤが脅威となるようになりました。実際、ヤロブアム二世が亡くなってから、およそ60年後には、北イスラエルの国はアッシリヤに滅ぼされてしまいました。ホセアの預言者としての働きは、このヤロブアム二世の繁栄した時代から、アッシリヤに国が滅ぼされるまでの時までと考えられます。

(1)神様がホセアに命令された預言のことば。

神様は預言者ホセアに信じられないような命令を言われました。2節「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国民は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」神様はホセアにふしだらな生活をしている女性と結婚するように命じられたのです。その女性は、神様に罪を犯す北イスラエルの人々の生活を表していました。ホセアは神様の言葉に従い、ゴメルという女性と結婚しました。しかし、彼女は三人の子どもを産みますが、その家庭を捨ててホセアのもとを出て行ってしまいました。その後、ゴメルは身を持ち崩し、遊女に成り果ててしまったのです。神様はホセアに遊女に成り下がったゴメルを金で買取、彼女の罪を赦し彼女を愛するように命じられました。ホセア書3章1節「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」神様はホセアに、自分と家族を捨てて出ていった妻ゴメルを赦し、遊女となった彼女をお金を払って買い戻し、以前と同じように彼女を愛するように命じられたのです。それは、イスラエルの神を捨てて、外国の神々に仕え神々を礼拝するイスラエルの民を、イスラエルの神は、今も、その民を愛し続けていることをホセアを通してイスラエルの民に教えるためでした。またそれは、自分を裏切った女を赦し愛することの苦しみを、ホセアも体験し理解するためでした。ホセアはゴメルを買取、彼女にやさしい言葉を投げかけました。3節「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」このことばは、神様からイスラエルの民に語られたことばなのです。さらに、ホセアはイスラエルの民に語りかけました。ホセア書6章1節「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」しかし、人々はホセアのメッセージに耳を傾けたでしょうか。彼らは豊かな生活を忘れることができず、偶像礼拝を悔い改めませんでした。その結果、北イスラエルの国はアッシリヤの国に滅ぼされてしまったのです。

(2)新約聖書と同じメッセージ。

新約聖書の初めに、神様が預言者バプテスマのヨハネに与えられたメッセージは、マタイの福音書3章2節「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という神様からのメッセージでした。また、このメッセージはイエス様が宣教を始められた時の、最初のメッセージとも同じです。当時のユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であり、モーセによって神様の戒めが与えられた聖なる民であると信じ、また、それゆえ自分たちは罪がないと信じていたのです。それゆえ、ユダヤ人以外の民族を異邦人と呼び、罪人として扱い、彼らとは付き合いをしなかったのです。そんな状況で、バプテスマのヨハネが登場し、ユダヤ人も罪人であることを教え、罪が赦されるために、異邦人がユダヤ教に改宗するために行なっていた、バプテスマ(洗礼)をユダヤ人も受けなければならないという神のことばを伝えたのです。悔い改めるとは、まず、自分の罪を認め、新しい生き方に改めることを意味しています。当時のユダヤ人にとっては、自分が罪人であることを認め、神様からの赦しを求めることを意味していました。

(3)現在の私たちへのメッセージ。

悔い改めなさい。というメッセージは、現在の私たちに対する神様のメッセージでもあります。イエス様はルカの福音書15章11節から有名な放蕩息子のたとえ話を群衆にお話しになられました。このお話しで、父のもとから離れ、父の財産を放蕩で失い、父のもとに帰る決心をした、弟息子を自分の罪を認め悔い改める人々を表し、自分の正しさを誇り、父のもとに帰ってきた弟息子を責める兄をパリサイ人の姿にたとえてお話しになりました。また、弟息子の帰りを待ちわびる父の姿を通して、神様は私たちが、自分の罪を認め神のもとに帰るのを待ちわびていることを伝えようとされたのです。

悔い改めるとは、神様が私たちの罪を赦すお方であることが前提となっています。神が私たちの罪を赦されないお方であれば、誰が神様の所に近づくことができるでしょうか。私たちは、神に罪を宣告され罰を与えられるだけです。旧約聖書で神様はホセアの苦しみを通してご自身が罪人を赦される神であることを表してくださいました。また、新約聖書において神様はイエス様の十字架の贖いを通して、私たちの罪を赦すお方であることを示してくださったのです。神様の愛は、旧約聖書、新約聖書を通して一つです。私たちが自分の罪を認め神に近づく時、神様も私たちに近づいてきてくださり、永遠の愛で私たちを受け入れて下さるのです。