イサクとリベカの信仰

「イサクとリベカの信仰」創世記25章19節~28節

イサクはアブラハムの後継者として生まれ育てられました。創世記の22章で、神様はその神様の約束の子として生まれたイサクを全焼のいけにえとして神様にささげるようにアブラハムに命令されたのです。アブラハムは二人のしもべとイサクを連れて神様が示された山モリヤに出かけました。モリヤの山に近づくと、アブラハムは二人のしもべを残して、イサクと二人で山に登りました。その時、アブラハムは、たきぎをイサクに背負わせたとありますから、当時、イサクは少年か青年の年齢に達していたと思われます。山の上に着くと、アブラハムは祭壇を築き、イサクを縛って祭壇のたきぎの上に置いたとあります。この場面で、イサクの行動については記されていません。普通、考えるなら、イサクは少年か青年の年齢ですから、逃げるとか、アブラハムに抵抗するとか考えられますが、聖書にそのような場面が無いことを考えると、イサクは父アブラハムに抵抗しなかったように思われます。なぜ、イサクは自分が殺されそうになっても、父アブラハムに抵抗しなかったのでしょうか。そこに神様と父アブラハムを信頼するイサクの信仰を見ることができます。新約聖書のヘブル人への手紙は、この時、アブラハムは「神には人を死者の中からよみがえらせることができると考えた。」とあります。この時、アブラハムが死人の復活についての信仰があったかどうかはわかりませんが、この時、イサクは少年でありながら、父アブラハムと神様に従順に従う信仰を持っていたのです。

イサクが成人すると、アブラハムは彼のために自分の生まれ故郷にしもべを遣わせ、イサクの妻を見つけるように命じました。アブラハムに遣わされたしもべは、ナホルの町で神様がイサクの妻と選ばれた人と出会えるように具体的に神様に祈りました。その祈りに応えてアブラハムの親族の子リベカが現れたのです。アブラハムのしもべはすぐにリベカの両親に会い、主人アブラハムとその子イサクについて話し、自分と共にアブラハムの所へ行き、イサクと結婚してくれるように頼みました。リベカはまだ一度もイサクと出会ったことも有りませんでしたが、神様の導きを信じて、しもべと共にアブラハムのもとへ旅だったのです。こうして、二人は出会い夫婦となりました。しかし、二人にはすぐに子どもが生まれませんでした。イサクは妻のために祈ったとあります。イサクは40歳の時に結婚しエサウとヤコブが生まれた時、イサクは60歳であったとあります。イサクは妻リベカのために20年祈り続けたのです。

ふたごを身ごもったリベカのお腹の中で、子どもたちがぶつかり合うのを感じて、リベカは心配し、主のみこころを求めたとあります。その時の主の答えが、二つの国があなたの胎内にあり兄が弟に仕えるというものでした。その後、エサウとヤコブが生まれました。二人は成長してエサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んだとあります。また、父イサクは猟を好み野の人エサウを愛し、リベカは天幕で暮らすヤコブを愛しました。この偏った愛し方が後に悲劇を産むことになります。

神様のみこころ「兄が弟に仕える」という預言のことばを信じるリベカはヤコブが族長に成ること信じていました。ところが、夫のイサクは、猟がたくみで外見も男らしいエサウを自分の後継者にふさわしいと考えていました。イサクが年を取り、目がかすむようになったとき、イサクは自分の後継者としてエサウに特別な祝福の祈りを授けようとしました。しかし、それを知ったリベカは、何とかエサウではなくヤコブを後継者にしなければならないと考えたのです。そこで、リベカはヤコブを呼び、夫イサクをだまして、エサウになりすまし兄の祝福を奪うように命じたのです。神様の祝福を願うヤコブは、父イサクをだまして兄の祝福の祈りを奪ってしまいました。後に、そのことを知ったエサウはヤコブを憎みヤコブを殺そうと考えました。それを知ったリベカはヤコブの命を救うために、自分の兄ラバンのもとにヤコブを送り出したのです。ヤコブは兄エサウの怒りを恐れ、遠く離れた叔父さんのラバンの家で暮らし始めました。20年後にヤコブは兄エサウと和解するために故郷に帰りますが、その時にはすでにリベカは亡くなっていました。夫を騙したリベカの罪は重く、その後、二度とリベカはヤコブと再開すること無くこの世を去って行ったのです。

神様を信じるイサクとリベカの家庭に起こった悲劇は何が原因だったのでしょうか。

(1)イサクは自分の後継者を誰にするかということを神様に祈ったでしょうか。イサクは自分の後継者として始めから、猟がたくみで見た目もたくましいエサウを考えていたのではないでしょうか。逆に、見た目もひ弱なヤコブを族長にするなど考えもしなかったのではないでしょうか。二人が生まれる時、神様のみこころは兄が弟に仕えるということばでした。イサクはそのことを知らなかったか、忘れてしまったのかわかりませんが、イサクは神様のことばよりも自分の考え、自分の好みを優先するために神様の計画を無視してしまったのです。もし、イサクが自分の後継者をだれにすればよいか、神様に祈って決めていたらこの悲劇は起こらなかったかもしれません。

(2)リベカは自分の好みもありましたが、神様のことば「兄エサウが弟ヤコブに仕える」にならなければならない、イサクの後継者はヤコブが継がなければならないと信じてきました。その神様の計画が変更されてしまう。神様のことばを信じるリベカにってそれは許されないことです。そこで、リベカが考えたことは、ヤコブを兄になりすまさせて、兄エサウの祝福の祈りを奪い取るという行為でした。ヤコブにとってそれは、父を騙す行為です。決して神様の喜ばれる行為でないことは明らかです。しかし、二人は神様の計画を実行するために、してはいけない間違いを犯してしまったのです。もし、リベカが神様を信頼して、神様の御手にこのことを委ねることができたら、この悲劇は起こらなかったと思います。

このことは、ヤコブとリベカだけの問題ではありません。私たちも同じように犯しやすい間違いです。アブラハムは自分の命を救うために妻サラに妹として振る舞うように命じました。しかし、その行為は裏目に出て、エジプトの王宮にサラを召し上げられてしまいました。この危機を救ってくださったのは神様でした。アブラハムはゲラルの地でも同じ間違いを繰り返しています。また、サラは自分が高齢になったために自分の女奴隷エジプトの女性ハガルを夫アブラハムに妻として与えました。ハガルは身ごもりイシュマエルを産みましたが、彼は神様の計画の子ではなかったので、後にアブラハムの家から追い出されてしまいました。もし、アブラハムとサラが神様の計画を信頼して神様の時を待つことができたなら自分の子イシュマエルを追い出すという悲しい出来事は避けることができたでしょう。このように、神様は私たちに自由意思を与えてくださり、神様の思いではなく、自分の意思を行うことができるようにしてくださいました。しかし、神様が私たちに自由意思を与えてくださったのは、私たちが喜んで神様の計画に従うことです。神様はそのために私たちに祈ることを教えてくださいました。しかし、私たちが祈らない時、私たちは間違った選択をしてしまいます。祈りは自分の願いを神様に押し付けるためではなく、神様の御心に私たちが従うために与えられたものです。私たちは、常に、祈りを第一番目にしているでしょうか。ともすると、自分の考えや計画が一番となり、祈りが一番最後になっていないでしょうか。イサクとリベカの家庭を通して祈りの優先順位について考えさせられました。