自分の本当の姿を受け入れる

「自分の本当の姿を受け入れる」コリント人への手紙第二12章1節~10節

いよいよ、梅雨も明けて、本格的な暑さがやって来ました。学校も夏休みに入りました。この時期、中学校、高校では、様々な大会が開かれ、試合が終われば、勝者と敗者に分かれます。勝者は喜びの涙を流し、敗者は悔し涙を流します。どちらも一生懸命練習した結果だからです。いい加減に練習して試合に勝っても涙はでません。また、一生懸命練習して負けたからこそ悔し涙が出るのです。

中学二年の秋大会で、私の所属するバレーボールのチームが市内の大会で初優勝しました。それは、私たちの中学校のバレー部創立以来の快挙でした。というのも、私たちの区域には、何十年も連続して優勝している大きな中学校があったからです。市内にある六つの中学校でどこもその中学校に勝ったことがありませんでした。ところが、私の年代に優秀な人材が集まり、周りから大きな期待が寄せられるようになりました。しかし、多く人々の意見は、絶対にあの中学校には勝てないというものでした。そして、決勝戦でその中学校と対戦することになりました。そして、私たちのチームが接戦の結果、その中学校を下し優勝することができたのです。相手の生徒たちは皆、泣いていました。今まで、市内の大会で負けたことのない学校です。相手の応援団も静まりかえっていました。勝った私たちも信じられませんでした。話はそれで終わりではありません。その後、勝った私たちは高慢になり、県大会優勝を目指すことが目標となりました。そんな時、先生が隣の県との試合を組んでくださいました。相手は隣の県の強豪です。私たちは先日の大会の勝利で自信満々でした。しかし、実際に試合をしてみると、明らかに実力の差がありました。私たちは1セットも取ることが出きず惨敗してしまいました。その帰り、電車の中で皆、無言でした。私たちはその敗戦を通して自分たちの本当の姿に気がついたのです。先生は、慢心する私たちを諌めるためにあえて、強豪と戦わせることによって自分たちの本当の実力をわからせようとされたのです。

織田信長は、尾張の国の一領主の息子でした。その彼が隣国の美濃を支配することによって天下統一への道を走り出したのです。しかし、彼は慢心し、自分を神のように振る舞い、結局自分の部下の明智光秀の謀反によって命を落としました。次に覇権を握ったのが、農民のから成り上がった羽柴(豊臣)秀吉です。彼は、信長の後継者となり、実権をにぎり関白まで上り詰めました。しかし、後継者問題でつまずき、彼の死後、豊臣家は滅ぼされ徳川の時代へと移り変わって行ったのです。人間は権力を持つと、自分の本当の姿を見失い、高慢になりやすい者です。神様は時として、苦しみや試練、挫折を通して本当の姿を私たちに教えることがあるのです。

ペテロは、12弟子の中で頭的存在でした。また、誰よりもイエス様を愛する者であることに自信を持っていました。そのペテロにイエス様はあなたは鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うことを預言されたのです。ペテロはそれを聞いて絶対にそんなことはありませんとイエス様の前で言い切りました。しかし、実際にその場に立たされたペテロは、自分の命を守るために、イエス様が言われたように三度もイエス様を知らないと言ってしまったのです。ペテロは誰よりも意思の強い人間でした。その彼が、イエス様の弟子であると事を否定してしまったのです。ペテロは弟子たちの頭となるために、自分の弱さを知る必要がありました。それゆえ、イエス様はあえて、この場面を作ることによって、彼に自分の弱さを教えられたのです。

初めにお読みしました、コリント人への手紙第二12章からの言葉は、後に、キリスト教の中心人物となるパウロの言葉です。彼はキリスト者となる以前は、ユダヤ教の厳格な教えを信じ、旧約聖書を教える律法の立派なラビ(教師)でした。彼は立派なユダヤ教の教師であるから、激しくキリスト教を迫害したのです。しかし、その後、パウロは実際に復活されたイエス・キリストど出会い、弟子たちの言葉が真実で、自分のほうが間違っていたことを教えられ、イエス・キリストを救い主と信じる者になったのです。また、パウロは世界宣教の働きに神様によって選ばれた者で、世界中にイエス・キリストによる救いを宣べ伝えました。パウロの働きによってたくさんの教会が誕生しました。そんなパウロであっても彼には一つの苦しみがありました。パウロはそれを取り除いてくださいと三度も神様にお願いしましたが、その願いは叶えられませんでした。しかし、神様はなぜ彼の願いが叶えられなかたのか理由を教えてくれました。コリント人への手紙第二、12章9節「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからでる。」と教えて下さったのです。何でも願いが叶えられ、思うように人生を歩んだとしたら、パウロでも高慢になっていたことでしょう。

ライフセーバーという仕事があります。彼らは海で溺れている人を助けるのが仕事です。彼らは溺れている人を見つけるとすぐに海に飛び込み溺れている人を助けに行きます。しかし、彼らは、溺れている人がバタバタ手足を動かしている間は手を出さないそうです。へたに近づくとしがみつかれて自分も危険になるからです。彼らは溺れている人が力を失い、静かになった時に後ろから抱えて助けだすという話を聞きました。神様と私たちとの関係も同じではないでしょうか。自分の力に頼り自分を誇るものを神様は助けることができません。私たちが自分の限界を知り、自分の弱さ、神様の助けを必要とする時まで、神様は手を出すこと無く、私たちを見守っておられるお方なのです。そういう意味で、自分の弱さを認めることは、私たちが神様から救いを頂く最初のステップということができるのです。