神の愛、母の愛、赦す愛

「神の愛、母の愛、赦す愛」ヨハネの福音書13章1節~5節

今日は母の日です。今まで母の日の起原については何度もお話ししてきたので、今日は詳しい説明はいたしません。ただ、母の日が教会から始められたお祝いだという事だけは覚えておいてください。

私たちは真の神をこの目で見ることは出来ません。しかし、神様はご自身のことを私たちに伝えるために二つのものを与えてくださいました。

1、神の性質としての愛。

創世記の1章26節に、神様が人を創造される時、ご自身(神に)似せて人間を創造されたとあります。神の形に似せてとは、外見を神に似せてという意味ではありません。神は空気やエネルギーのような意志のない存在ではありません。私たちと同じ人格を持った存在です。また、聖書は神の性質を愛という言葉で表しています。この神の性質、愛を神様は私たち人間にも与えてくださいました。神様の愛は赦す愛です。旧約聖書の歴史の中で、人間は何度も神様の戒めに背きました。しかし、神様は何度も人の罪を赦し人を愛し続けてくださいました。神様はアブラハムとの契約により、アブラハムの子孫イスラエルの民を特別に愛されました。しかし、それなのにイスラエルの民は何度も真の神を捨て、他の神々を自分たちの神として礼拝をささげたのです。それゆえ、南ユダ王国は紀元前585年にバビロニヤの国に滅ぼされてしまいました。しかし、神様はその70年後に約束通り、もう一度、国を再建してくださったのです。イスラエルの民は自分たちの国が滅ぼされたのは、自分たちの先祖がイスラエルの真の神様を捨て去ったことにあることを学び、彼らは二度と、偶像礼拝の罪を犯すことはありませんでした。神様はイスラエルの民をもう一度自分の民とするために、イスラエルの国をあえて一度、滅ぼされたのです。

2、イエス様の愛。

イエス様の宣教の働きは、神様の愛を表す働きでした。イエス様は貧しい人々を愛し、病に苦しむ人々を哀れみ病をいやされました。先程お読みしました、ヨハネの福音書13章は、過越の祭りの前にイエス様が弟子たちに行われた有名な場面です。夕食の席で、突然イエス様が立ち上がり、弟子たちの前にひざまずき、弟子たちの足を洗い始めたのです。当時、お客の足を洗うことは、その家の一番下のしもべの仕事とされていました。この出来事に弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。ペテロなどは、イエス様に自分の足は洗わないでくださいとお願いするほどでした。イエス様の弟子のヨハネはこの出来事を「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と表現しています。この時、イエス様はこの後、自分が捕らえられると、弟子たちは自分を捨てて逃げていくことを知っておられました。また、ペテロが自分のことを知らないと三度も自分の弟子であることを否定することも知っていました。以前、恩師の先生から教えられたことですが、イエス様の本当の苦しみは、釘で十字架に付けられたことではなく、自分の愛する弟子に裏切られたことだと教えられました。確かに、体の痛みよりも、信じた者に捨てられ、裏切られた心の痛みの方が何倍も傷つきます。イエス様はそのことを承知の上で弟子たちの足を現れたのです。

3、母の愛。

母の我が子に対する愛も特別な愛です。最近出版された本に「私を代わりに刑務所に入れてください。」があります。この本は、野田詠さんの証しです。彼は暴走族に入り、暴力と窃盗、シンナーを吸うなど荒れた生活を過ごしていました。そして、ついに警察に捕まり少年院に送られることになりました。その時に彼の傍らにおられたお母さんの悲痛な叫びがこの本のタイトルになったそうです。非行を繰り返す息子を愛する母の悲痛な叫びです。母親は息子がどんな罪を犯しても赦し続けようとします。あきらめずに愛し続けます。それは、神様の愛と同じです。神様の前に全ての人は罪を犯しました。本来なら捨てられて当然の存在です。しかし、神様はそんな私たちを救うためにひとり子イエス様を十字架の上で私たちの罪の身代わりとされました。また、イエス様は、自分を裏切る弟子たちを赦し、私たちを救うために無実の罪で十字架で死んでくださいました。神が愛でなければ、私たちはとっくに滅ばされていました。私たちの信じる神様は人を赦す神であり、人を愛する神様なのです。私たちは母親を選んで生まれることはできません。神様が私たちに一番ふさわしい母親を選んで生まれさせてくださったのです。以前読んだ本で、障がいを持って生まれた子を生んで不安を持つ、お母さんに病院の先生が言われた言葉を思い出しました。先生はお母さんに言われました。「神様はあなたを信頼して、この子を託しても大丈夫だと思われたので、あなたにあたえられたのですよ。だから大丈夫です。」こどもは、神様から託された宝物です。また、こどもにとって母親は自分を愛し守ってくださるために神様によって選ばれた母なのです。