ハンナの悲しみと神への祈り

「ハンナの悲しみと神への祈り」サムエル記第一1章1節~11節

私たちの人生には楽しい時もあれば、悲しみ苦しみの時もあります。特に、悲しみや苦しみは前ぶれもなく突然に襲ってきます。愛する者の死。リストラ。裏切りなど。幸いな時は、何も考えず幸せな日々を過ごせばいいですが、悲しみや苦しみに出会った時、私たちはどのようにして悲しみや苦しみを乗り越えれば良いでしょうか。私たちはハンナの態度を通してそのことを学ぶことができます。

2節「エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。」とあります。当時は、一夫多妻が認められていた時代ですから、エルカナが二人の妻を持つことは違法ではりませんでした。想像すると、エルカナはハンナと結婚したが、ハンナが子を産むことができないので、エルカナは跡継ぎを得るためにペニンナを妻として迎えたのではないでしょうか。当時はそれが普通の行為であったと思われます。また、子を産むことができないハンナにとっても受け入れなければならない状況であったと思われます。しかし、ハンナにとってはつらい決断だったでしょう。

6節「彼女(ハンナ)を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。」とあります。ペニンナはエルカナに愛されて妻に迎えられたわけではありません。彼女の役割は、エルカナのために子を産むことでした。しかし、また、彼女はエルカナにたくさん子を産むことで、彼の愛を受けることができると信じていたのではないでしょうか。しかし、エルカナのために跡継ぎを産んでも、エルカナの愛はハンナに向けられていました。そのような状況の時、憎しみは夫ではなく、エルカナの愛するハンナに向けられます。ハンナさえいなければ夫の愛は自分に向けられると考えるのです。そこで、ペニンナはわざとハンナが苛立つように振舞ったのです。もし、ペニンナがハンナの苦しみを少しでも理解し、優しく彼女に接したのなら、ハンナの苦しみはもっと小さなものだったでしょう。

ハンナはこの苦しみをどこへ持っていったでしょう。10節11節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った『万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主にささげます。そして、その子の頭に、かみそりをあてません。』」ハンナはこの苦しみを神様の前に持って来ました。夫のエルカナはハンナを愛していましたから、夫に頼んでペニンナを追い出すこともできたでしょう。アブラハムの妻サラは、自分が子を産むことができないので、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに妻として与えました。しかし、ハガルは身ごもると女主人のサラをバカにするようになりました。そこでサラはハガルをいじめ家から追い出したのです。また、ハガルはアブラハムのもとに戻り、イシュマエルを産みました。その後、サラもイサクを産みました。しばらくして、イシュマエルがイサクをいじめているのを見て、サラは、ハガルとイシュマエルを家から追い出すようにアブラハムに願い、アブラハムは仕方なく二人を追い出したのです。

また、ヤコブはラケルを愛し彼女を妻とするために叔父ラバンと7年間ラバンのもとで働くことを約束しました。しかし、結婚式の夜、ヤコブの部屋にいたのは姉のレアでした。ラバンはラケルと結婚したければレアとも結婚し、もう7年間働くように命じました。ヤコブは仕方なく、レアとラケルの二人と結婚しました。しかし、ヤコブはラケルを愛していました。レアは子を産むことでヤコブの気持ちを自分に向けさせようと四人の子を産みました。それに対して子を産めないラケルは、自分の女奴隷ビルハを夫に与え、彼女によって子を得ようとしました。それを見たレアも自分の女奴隷ジルパを夫ヤコブに与え子を得ました。こうして、ヤコブの家庭には四人の妻がおり、それぞれ母親の違う子が12人も生まれたのです。しかし、ヤコブはラケルの子ヨセフを特別に愛しました。そこから兄弟の間に憎しみが生まれ、兄たちはヨセフをエジプトに奴隷として売り渡してしまったのです。その後、ヨセフはエジプトの総理大臣までに出世し、兄弟たちに出会い、和解すると言うお話しが創世記にあります。

このように、ハンナにも、ペニンナを追い出すこと、また、女奴隷を雇い、ペニンナに対抗することもできました。しかし、彼女はそのような方法を用いませんでした。旧約聖書に「目には目を歯に歯を」という戒めがあります。それは、目を取られたら相手の目を取っても良い。歯を折られたら相手の歯を折っても良いと言う戒めです。やられたら同じ事をやり返してもよいという戒めです。もし、ハンナが自分の力でペニンナに仕返しをしたとしたら、この家庭はどんなに憎しみに支配されたことでしょう。しかし、ハンナはそうしなかったのです。私たちは容易に仕返しをしやすい者です。

ハンナの祈りは、苦しみから助けだしてくださいという祈りではりません。もし、この問題の解決だけを求めるなら、こどもを与えてくださいとだけ祈ったことでしょう。また、そのように問題の解決だけを神様に祈る人はたくさんいます。しかし、ハンナは生まれた子を主にささげますと祈ったのです。生まれた大事な子を主にささげますとは献身の祈りです。

ハンナは自分のために祈ったのではなく神様のために祈ったのです。自分のために祈る人はたくさんいます。しかし、神様のために祈る人はどれぐらいいるでしょうか。神は彼女の祈りに心を留められたのです。このことは、私たちの家庭や職場でもあることです。嫁をいじめる姑、その嫌がらせに対向する嫁。部下をいじめる上司、上司の悪口を言う部下。やられたからやり返した。その考えではいつまでも憎しみはなくならず、増大するばかりです。イエス様は、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われました。やられたら倍にしてやり返せという教えとは大きな違いです。詩篇121「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」とあります。ハンナはこの苦しみの助けを天地を造られた主の所に持って来ました。私たちはこの問題をどこに持って行き、どのように解決する者でしょうか。