神の時間と人間の時間

「神の時間と人間の時間」伝道者の書3章1節~8節

ファーストフード店という言葉があります。注文してすぐに食べることができる、ハンバーガーや牛丼などのお店です。待ち時間が少なく、時間がない時など便利で、ついつい、簡単にそのようなお店で昼食などを済ましてしまうことがあります。あまり健康には良い食事とは言えません。また、スーパーのレジなど、バーコードで計算ができるようになり、昔より早くなったはずですが、それでも、レジの前で、列が長くなるとイライラしてしまいます。便利な社会になればなるほど、人間は待つことの忍耐を無くしていくように思います。祈りについても同様に、早く早くという思いが強くなっていないでしょうか。祈っても何の変化も現れないと、私の祈りを神様は聞いてくださらないとあきらめたり、神様への信頼さえ失ってしまうこともあります。しかし、それは、自分の勝手な思いで、神様の時ではないことを覚えなければなりません。ペテロの手紙第二、3章8節に「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」神様は時間に支配されないお方だということです。

士師記の終わりの時代、イスラエルの民は、周りの国々と同じように、国を治める王を預言者サムエルに求めました。そして、神様が選ばれたのがサウルという王様です。サウルは、初めは神様に従い大勝利を治めましたが、次第に彼の信仰の無さがあらわされるようになりました。ある時、サウルはペリシテの国との戦いで、預言者サムエルの来るのを待つように命じられていました。しかし、サムエルの来るのが遅れ、イスラエルの民はペリシテ人を恐れ、サウルから離れようとしはじめました。そこで、サウルは、サムエルを待つことができずに、自ら全焼の生贄を神様にささげてしまったのです。その後、サムエルが来て、この状況を見てサウルに言いました。13節14節「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」こうして、サウル王は神様から退けられ、新しい王としてダビデが任命されたのです。

新しく王として任命されたダビデはどのような信仰を持っていたでしょうか。サウルは神様から王として退けられましたが、依然としてイスラエルの王の地位にありました。一方、ダビデは、預言者サムエルによって油注がれ、イスラエルの王に任命されましたが、実際的な権威はありませんでした。しかし、ダビデがサウル王に仕えるようになると、イスラエルの国でダビデの名が次第に有名となり、サウルの人気を上回るようになりました。それを知ったサウルはダビデを恐れ、ダビデを殺そうと決心したのです。それを知ると、ダビデは危険を察知し、イスラエルの国から身を隠しました。それでも、サウルはしつこくダビデの命を狙いました。ある時、ダビデたちが山に逃げると、サウルは大軍を持ってダビデを追ってきました。ダビデたちが洞穴に身をひそめると、サウルが一人で用を足すために入ってきました。ダビデにとってサウルを殺す絶好のチャンスです。ダビデの部下も、自分がサウルを必ず殺しますから命令を下してくだしとダビデに願いました。しかし、ダビデは、主に油を注がれた王に手を下してはいけないと、サウルの着物の端だけを切り取り、自分はサウル王を殺す気持ちが無いことをサウルに証明しようとしたのです。ダビデにしてみれば、ここでサウルを殺せば、自分のいのちは助かり、イスラエルの王になることもできました。しかし、ダビデは、自分の力で、問題を解決しようとせず、神様の時を待つ信仰を持っていたのです。後に、もう一度、サウルを殺すチャンスがありましたが、その時も、部下の意見を抑えて、サウル王を殺しませんでした。その後も、ダビデはサウルに命を狙われ、他国に亡命までする苦しい生活が続きました。その後、サウルはペリシテの国との戦争で敗れ戦死してしまい、ユダ部族がダビデを王として迎え、その後、イスラエル全体の王に任命されました。

私たちはダビデと同じように、神様の時を待つことができるでしょうか。祈りとは、自分の都合に神様を利用することではありません。神様の計画に自分自身から従うことです。そのために忍耐が求められます。私が神学校4年生の時、千葉で若い宣教師のグループと開拓伝道をしました。その時、彼らの住まいを借りるのに保証金50万円が足りずに困っていました。その時、私の手元に、卒業のために神学校に納めるお金50万円がありました。私は祈って彼らに捧げました。必ず神様は私の必要も満たしてくださると信じたからです。しかし、卒業が近づいても、お金は神様から与えられませんでした。困った私は、実家の母にお金を借りることにしました。母はすぐにお金を準備してくれましたが、私の心に喜びはありませんでした。以前、神学校に入学する時、両親の前で、神学校のお金はすべて神様が与えてくださると断言していたからです。この時の私の気持ちは、神様がお金を下さらないのだから仕方がないという暗い思いでした。それから、しばらくして、礼拝の後で、牧師先生に牧師室に呼ばれました。その時に先生から、役員会で正式に副牧師に任命されましたから、これから毎月教会から経済的なサポートをしますという話でした。そして、その場で、先月と合わせて二か月分のお金を頂きました。その金額が50万円でした。その時、自分の信仰の無さを思い知らされました。神様は約束通り、私の必要を備えてくださっていたのに、私は神様に信頼できずに、自分の力で、しかも、両親に頼るという方法で問題を解決したことを後悔しました。この出来事は、私に教訓として心に刻まれました。その後、二度と、神様以外に頼って問題を解決しないように心がけています。

目に見えない神様に信頼するということはどんなに難しいことでしょう。それゆえ、信仰が試されます。旧約聖書の中でも、アブラハムは神様の約束を信じることができずに、サラの女奴隷、ハガルを妻に娶り、イシュマエルを産ませてしまいました。また、イサクの妻リベカは、双子が生まれる前に、神様から、兄が弟に仕えるという神の約束を頂いていました。しかし、夫のイサクは見た目にたくましい兄のエサウを後継者に指名しようとしました。そこでリベカは、弟のヤコブを後継者にするために、目の衰えた夫をだまして、兄に成りすまして、兄の祝福を奪うようにヤコブに命じたのです。ヤコブは母のことばに従って、兄に成りすまして、兄の祝福を奪い取ってしまいました。その結果、ヤコブは兄のエサウに憎まれ、身を守るために、遠く離れた叔父のラバンの元に身を寄せなければならなくなりました。リベカもヤコブも神様の約束を信じることができずに、夫イサクをだまして、兄エサウから神様の祝福を奪い取ってしまったのです。私たちの人生にも神様を信じていても、苦しみや悲しみがあります。なぜ、こんな苦しみがあるのか神様に訴えたい時があります。パウロも神様に苦しみを訴えました。その時の神様の答えが、コリント人への第二の手紙12章9節「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。」というものでした。祈りの答えにも色々あります。すぐに叶えられる祈りもあれば、時間がかかる祈りの答えもあります。また、叶えられない祈りの答えもあります。しかし、時間がかかる祈りも、叶えられない祈りにも神様の理由が必ずあるのです。