星に導かれた博士たち

「星に導かれた博士たち」マタイの福音書2章1節~12節

アドベントの第1週は、マリヤを通して「神さまの選び」について学びました。先週の第2週は「インマヌエル(神が共におられる)」という言葉について学びました。今日は、「神様の導き」について学びます。

マタイの福音書2章1節から12節で、三つの立場の人々が登場します。(1)東方の博士たち。(2)ヘロデ王。(3)祭司長、律法学者たち

(1)東方の博士たち

東方の博士たちは不思議な星に導かれてエルサレムまでやって来たと記されています。彼らが来た東方とはどの地域を指すのか、聖書には記されていません。しかし、イスラエルの国の歴史を見ると、イスラエルの国はソロモン王の死後、北イスラエルと南ユダ王国に分かれました。また、北イスラエル王国はBC720年にアッシリアによって滅び、南ユダ王国はBC585年にバビロニヤの国に滅ぼされ、エルサレムの貴族や技術者は強制的にバビロニヤの国に奴隷として連れていかれたという歴史があります。その後、70年後に、捕囚が赦され、国を再建する機会が与えられ、多くのユダヤ人が国に帰りユダヤの国を再建しました。しかし、また、多くのユダヤ人はバビロニヤに残り、ユダヤの歴史と文化はその街に残されました。また、「博士たち」とありますが、当時は星占いによって未来を予言する者たちを博士と呼び、人々から尊敬され、王や貴族たちに用いられていました。彼らは星の動きを見て、災害や国の動きを見極めていたのです。その彼らが、ユダヤの国の方角に不思議な星を発見し、星に導かれてエルサレムまで来たのです。彼らはヘロデ王に言いました。2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」彼らは不思議な星の登場を新しい王子の誕生と理解したのです。

(2)ヘロデ王

ヘロデはイドマヤ人でユダヤ人ではありません。イドマヤ人はヤコブの兄エサウの子孫です。ヘロデは、お金と権力で、当時のローマ政府に取り入り、ユダヤの国の王に登りつめた成り上がり者です。それでユダヤの人々はヘロデ王を自分たちの王として尊敬をしていませんでした。そのため、ヘロデ王はユダヤ人から尊敬を受けるために莫大なお金を投資してエルサレムの神殿を再建したのです。イエス様の時代の神殿はヘロデ王が再建した第三神殿と呼ばれるものです。また、ヘロデ王は猜疑心が強く、残忍で人々はヘロデ王を恐れました。そのヘロデ王の下に東方の博士たちが,ユダヤ人の王として新しく生まれた王を搜しに来たのですから、ヘロデにとっては自分に敵対する者の誕生です。彼はすぐに、その幼子を殺す計画を立てたのです。

(3)祭司、律法学者

ヘロデ王が、東方から来た博士たちの話を聞いて、彼は、祭司、律法学者たちを集めました。そして、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると彼らは、旧約聖書からキリスト(メシヤ)は、ユダヤのベツレヘムで生まれることを告げました。彼らは旧約聖書のミカ書にある言葉からユダの地ベツレヘムでメシヤが生まれることを知っていたのです。しかし、彼らは東方から来た博士たちの話を知っていながら、東方の博士たちと共に、ユダヤの王として生まれた幼子を搜しに行きませんでした。

結局、幼子を礼拝したのは、東方の博士たちだけでした。彼らは生まれた幼子を礼拝し、黄金、乳香、没薬を幼子に贈り物としてささげたとあります。祭司や律法学者たちはなぜ、東方の博士たちと共に幼子を搜しに行かなかったのでしょうか。その理由として次の三つが考えられます。(1)ヘロデ王を恐れた。(2)当時、ローマ政府は宗教には寛容で、自国の宗教を認めていました。それゆ、ユダヤの国では、ユダヤ教に迫害はなく、守られていました。祭司たちは、自分たちの生活が守られていたため、幼子救い主の誕生を必要としていなかった。(3)祭司、律法学者たちは旧約聖書を調べることに熱心で、東方の博士たちの言葉を信用していなかった。それゆえ、あえて、彼らは東方の博士と共に幼子を搜しに行かなかったのです。

神様はご自身のひとり子イエス様の誕生を祭司や律法学者たちに伝えないで、東方の博士たちに不思議な星の登場によって知らせました。彼らは素直に星に導かれ幼子のいるところまで導かれました。実は、神様は祭司や律法学者たちには、東方の博士たちを通して救い主の誕生の知らせを伝えたのです。しかし、祭司、律法学者たちは心がかたくなで、東方の博士たちの話に耳を傾けませんでした。現在、神様は聖書の言葉を通して私たちに語りかけておられます。しかし、現在でも、祭司、律法学者のようにかたくなな心を持って聖書を読むなら、神様の導きを受け容れることができません。イエス様は、こどものように神の国を受け入れなければその国に入ることはできないと弟子たちに教えました。こどものようにとは、疑わないでという意味です。大人は、自分の立場を考え、また、計算して、神様の導きを考えます。また、自分で理解できないことは受け容れません。小さなこどもはサンタクロースを信じてプレゼントを待ちわびます。しかし、大きくなるに従ってサンタクロースなどいるわけがないと考えます。そしてプレゼントも期待しません。イエス様は復活してトマスに言われました。見ずに信じる者は幸いであると。旧約聖書の時代は、神様の戒めを完全に守るものが天国に入ると信じていました。ユダヤ人はそれを信じて熱心に旧約聖書を学びました。しかし、神様はひとり子イエス様をこの世に遣わし、信仰による救いの道を備えて下さいました。信仰による救いとは、見ずに信じることです。聖書の知識は必要です。しかし、その知識が人を救うわけではありません。私たちを罪から救うのは、イエス様の十字架だけです。そのために、イエス様は人として生まれ十字架の上で死んでくださいました。私たちに必要なのは、信じる努力です。イエス様は求め続けなさいそうすれば見つかりますと言われました。祭司、律法学者たちは、聖書の言葉は知っていましたが、神様が備えてくださった救いの道を求めませんでした。彼らは、神様の助けを必要としなかったのです。私たちはどうでしょうか。東方のの博士たちは、危険を顧みず、また、砂漠を乗り越える遠い旅に出かけました。それほど、彼らは、新しくユダヤで生まれた幼子を求めたのです。私たちは、東方の博士たちのように、熱心に救い主イエス様を求めているでしょうか、また、必要としているでしょうか。幼い子供たちが、サンタクロースからのプレゼントを待ちわびるように、神様からの恵みを待ちわびましょう。