ダビデの子と苦難のイエス

「ダビデの子と苦難のイエス」ルカの福音書18章31節~43節

ルカの福音書18章31節から34節で、イエス様はこれからご自分に起こること(十字架の死と復活)について弟子たちにお話になられました。しかし、彼らはイエス様の話を理解できなかったとあります。34節を見ると「弟子たちはこれらのことが何一つわからなかった」なぜなら、「彼らにはこのことばは隠されていた」からです。それゆえ「話されたことが理解出来なかった。」のです。イエス様は以前にも同じ内容を弟子たちにお話になったことがありました。ルカの福音書9章22節「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねければならないのです。」イエス様が弟子たちにこのお話をされたきっかけは、その前のペテロの信仰告白に理由があります。ルカの福音書9章18節でイエス様は弟子たちに「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねられました。すると弟子たちは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者のひとりが生き返ったのだと言っている人もいますと報告しました。そして、イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。するとペテロが弟子を代表して「神のキリストです。」と答えました。これを聞いてイエス様は弟子たちに、このことをだれにも言わないように戒めて命じられたとあります。そして、先ほどのご自分の死と復活について話されたのです。なぜ、イエス様は弟子たちに自分がキリストであることを人々に言わないように戒められたのでしょうか。それは、この時の多くの人々、また弟子たちも「キリスト」という意味を間違えて理解していたからです。当時、ユダヤ人の多くが待ち望んでいた「キリスト(メシヤ)」というのは、ユダヤの国をローマ政府から独立させる革命家としてのメシヤを待ち望んでいました。イエス様はそのことを知っておられたので、ご自分のことを、メシヤと言う言葉を使わないで、人の子ということばを使われました。それゆえ、誤解をまねかないように弟子たちにも、キリストということばを使わないように戒められたのです。

多くのユダヤ人たちは、イエス様に革命家としてのメシヤの姿を求めました。それは、彼らが、何としても、ローマの支配から独立して、ユダヤの国を再建したいという強い願いがあったからです。旧約聖書のイザヤ書に苦難のしもべの預言があります。イザヤ書53章に、神より遣わされたしもべが苦しみを受け殺されることが預言されています。ユダヤ人たちは熱心に旧約聖書を研究し、神様のことばを理解しようと努めました。しかし、彼らは、このイザヤ書の預言を理解することが出来なかったのです。彼らにとって神様は偉大なお方です。その神様から遣わされたしもべが、苦しみを受け殺されるなど受け入れることができませんでした。また、彼らは、イエス様がご自分のことを神の子とすることも受け入れませんでした。神は偉大なお方であり、神が人として生まれるなど受け入れられない、信じられないことだったのです。それゆえ、彼らは、神を冒涜した罪で、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。神は、人々の罪をイエス様のいのちによって赦し、救い永遠の命を与えようと計画されました。しかし、ユダヤ人たちはそれを望みませんでした。彼らの願いはあくまでも、ユダヤの国をローマの支配から独立させることだったからです。ここに、神様の計画と人間の願いとの大きな隔たりができてしまい、イエス様を神の子と人々は理解することができなかったのです。

次に、35節から、イエス様をダビデの子と叫ぶ盲人が登場します。ここで彼がイエス様に叫んだ「ダビデの子」という呼び方に問題がありました。旧約聖書の預言で救い主はダビデの家系から生まれると伝えられていました。ユダヤ人たちはその預言の言葉をそのまま信じていました。それゆえ、マタイの福音書を書いたイエス様の弟子マタイはアブラハムの系図を最初に書き始め、イエス様がダビデの家系であることを強調したのです。しかし、「ダビデの子」という呼び方にもさまざまな意味がありました。多くのユダヤ人たちは、先ほどの「メシヤ」と同じ意味に受け入れていたのです。この場面で、イエス様はこの盲人に対して、41節「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねました。彼はイエス様に「主よ。目が見えるようになることです。」と答えました。そしてイエス様は彼に42節「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われ、彼の目は見えるようになったのです。イエス様はこの盲人に「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねたのには意味がありました。この盲人がイエス様をどのように理解して「ダビデの子」と叫んだのかを確かめるためでした。盲人はイエス様に「目が見えるようになることです。」と答えました。当時、盲人の目を治すことは神様と同等の権威があることを示していました。この盲人は、イエス様にユダヤの国をローマ政府から独立させる革命家ではなく、神から権威を与えられた救い主として信じてイエス様を「ダビデの子」と叫んだという事です。イエス様が彼に言われた、「あなたの信仰」とは、先ほどの、イエス様が弟子たちに尋ねた、「あなたがたはわたしを誰と言いますか。」と同じ意味を持ちます。この盲人がイエス・キリストを誰だと信じるのか。ローマの支配からユダヤの国を独立させるメシヤなのか、神様の権威を頂いたメシヤなのか。彼の目が見えるようになったのは、彼が、イエス様に、盲人の目を開ける権威があることを信じたからです。この後、彼はどうしたでしょうか。43節を見ると「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。」とあります。目が見えるようになった彼はイエス様の弟子の仲間入りをしたという事です。ここに群衆と彼の違いがあります。群衆はイエス様を利用して、ユダヤの国をローマ政府から独立させようとしました。それゆえ、イエス様がそのような働きを一切、なされないのを見て、イエス様から多くの群衆が去って行きました。この盲人は、目が見えるようになり、イエス様の弟子となったのです。彼は、イエス様を神様から遣わされたメシヤと信じたからこそ、イエス様の弟子の仲間に加わったのです。イエスとは誰でしょうか。革命家でしょうか。慈善家でしょうか。宗教家でしょうか。彼は「神の子キリスト」です。その神の子イエス・キリストが私達の罪の身代わりとして十字架で死なれたのです。そこに、私たちに与えられた救いの尊い意味があるのです。