十字架の死の準備

「十字架の死の準備」ヨハネの福音書12章1節~7節

今年もイースターの日が近づいてまいりました。今年のイースターは4月16日です。これからイースターまで5回日曜日があります。5回を通して、イエス様の十字架の死と復活について学んでいきたいと思います。

1回目は、「十字架の死の準備」と題して、マリヤが高価なナルドの香油をイエス様に注ぎかけた出来事から学びます。ヨハネの福音書12章1節に「イエスは過越しの祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。」とあります。この言葉の中に、大切な二つのことが隠されています。(1)マリヤがイエス様に香油を注ぎかけたのが、過越しの祭りの六日前であったこと。イエス様が祭司長、民の長老たちに捕らえられ十字架に付けられて殺されるのが、この過越しの祭りの時です。マリヤがイエス様に香油を注ぎかけたのは、そのようなイエス様の死が近づいた緊迫した時であったこと。(2)ヨハネの福音書11章には、イエス様がラザロを死よりよみがえらせた出来事が書かれています。イエス様がラザロを死からよみがえらせたことは、イエス様の身に、二つのことを招くことになりました。(1)イエス様がラザロを死からよみがえらせたことを知った、イスラエルの多くの人々が、イエス様を救い主と信じ、エルサレムで歓喜を持ってメシヤの到来を迎えることになった。(2)祭司長、民の長老たちは、人々の反応を見て、イエス様を恐れ、イエス・キリストを一日も早く殺さなければならないと決めたことです。この出来事によって、祭司長、民の長老たちがイエス様を死刑にすることを決めたということです。ここからイエス様の十字架への歩みが始められたのです。

3節「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」とあります。その場にいた人々はマリヤの突然の行動に驚いたことでしょう。マリヤがイエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛で拭い始めたのだからです。また、この香油のにおいが部屋中に広がったとあります。イスカリオテ・ユダはこれを見て、マリヤを咎めました。4節「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼はこのにおいをかいで、この香油が高価なものであることを見抜きました。三百デナリは現在のお金に換算すれば300万円にあたります。そんな高価な香油をイエス様の足にぬりはじめたのですから、弟子たちのお金を管理しているイスカリオテ・ユダとしてみれば、もったいないと感じたのです。しかし、イエス様はマリヤの行為を拒むことなく、受け取られました。また、マリヤの行為を称賛し、7節「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」と言われたのです。香油は当時、体のにおいを消すために女性には欠かせないものであったようです。また、マリヤの家は、姉のマルタと弟のラザロの三人暮らし、それでも、イエス様と弟子たちを迎えるほどの大きな家に住んでいたことを考えると、マリヤの家庭は大変裕福であったように思われます。マリヤは自分のために高価なナルドの香油を取っておいたのでしょう。その大切な香油をマリヤはイエス様のためにすべてを使い尽くそうと考えたのです。マリヤはなぜ、突然イエス様の足に高価な香油を塗り始めたのでしょうか。ヨハネの福音書11章で、マリヤは、イエス様に死んだ弟のラザロをよみがえらせていただきました。死んだとあきらめた弟をイエス様によってもう一度、取り戻すことができたのですから、マリヤにとって三百デナリ以上の価値(喜び)があったのではないでしょうか。マリヤは自分ができる最高の感謝の気持ちを表すことが、高価なナルドの香油をイエス様の体に塗ることだったのです。また、香油は、死んだ人の埋葬のためにも用いられていました。イエス様はこの後、裁判に掛けられ、十字架の上で殺されることになります。イエス様はこの時、すでに死の覚悟をされていました。この時に、マリヤの香油が無ければ、だれも、イエス様の埋葬の準備をすることはできませんでした。マリヤは、イエス様への感謝の気持ちで、イエス様に香油を塗りましたが、結果的に、この行為が、イエス様の埋葬の準備となり、イエス様は喜んでこのマリヤの行為を受け取られたのです。

イエス様は、私たちを罪の中から贖うために、ご自分のいのちをささげてくださいました。いのちは、イエス様の持ち物で一番高価なものです。私たちは、その大きな犠牲のゆえに、救いを得て神様のこどもとされました。私たちはそのイエス様にいつも一番良い物をささげているでしょうか。マルコによる福音書の12章41節から、貧しいやもめがささげたレプタ銅貨二つのお話があります。レプタ銅貨は当時の最小単位の銅貨であると言われています。イエス様はこの献金が誰よりも多くささげられた献金であると言われました。それは、彼女がささげた献金の額ではなく、その献金が彼女の生活費の全部であったからです。どうして、彼女がそんなに大切な生活費を神様にささげたのでしょうか。これは、想像ですが、何か、神様に感謝することがあったのではないでしょうか。彼女はその喜びのゆえに、感謝して、持っていた生活費すべてを神様にささげたのではいでしょうか。感謝の気持ちというのはそういうものではないでしょうか。私たちが、イエス様と出会い、救われた時の感謝の気持ちはどんなに大きなものであったでしょう。罪人であった私たちの罪が赦され、天国の住人とされたのです。ジョン・ニュートンという人が作った「アメージング・グレイス」という讃美歌があります。彼は、奴隷船の船長という罪深い仕事をしていました。しかし、こんな罪深い私をもイエス様が救ってくださった、その感動の気持ちを歌ったのが、アメージング・グレイスです。私たちもジョン・ニュートンのように救いの喜びを持ち続けているでしょうか。今でも同じように、いや、それ以上に神様に感謝して歩んでいる人は幸いな人です。