金持ちとラザロ

「金持ちとラザロ」ルカの福音書16章19節~31節

「死後の世界」人が死んだ後のことについて、多くの宗教が様々な形で説明しています。それほど、人間にとって死後の世界は大切なことで、私たち人間の力ではどうしよもない世界です。かつて、私は中学生の時、真剣に死後の世界について考えたことがあります。人は死んだ後どうなるのか、天国と地獄は本当にあるのか、あるとすれば、自分は天国に入れるのだろうかと。しかし、その疑問に答えを得ることはありませんでした。それから10年後、私はその答えを聖書の中に見出したのです。

先週、イエス様が不正な管理人をほめた例え話についてお話ししました。ルカの福音書16章14節に「さて、お金の好きなパリサイ人ちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」とあります。パリサイ人たちは、イエス様の話されたお話の意味を理解出来なかったのです。今日お話する「お金持ちとラザロ」のお話は、お金持ちやパリサイ人たちに話された例え話です。マタイの福音書19章16節から、お金持ちの青年がイエス様に永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいでしょうかと尋ねた箇所があります。イエス様は彼に、自分の持ち物を売り払って貧しい人々に与え、その上でわたしに付いて来なさいと言われました。しかし、その青年はそれを聞くと、イエス様から去っていったとあります。そして、イエス様は、23節24節「まことにあなたがたに告げます。金持ちたちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われました。弟子たちはこれを聞いて驚いたとあります。当時、お金持ちは、神殿に多額の献金をし、貧しい人々に施しをしていました。当時の人々は、お金持ちやパリサイ人こそ天の御国にふさわしい人々であると考えていたからです。

ルカによる福音書16章19節で、お金持ちは紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたとあります。当時、紫の布は高貴な者以外着ることがゆされませんでした。また、細布とは、エジプトで作られた麻布の柔らかな着物のことで高価な衣装でした。もうひとりのラザロは全身におできができた貧しい人でした。このラザロが死んで、御使いたちがラザロをアブラハムのふところに連れていったとあります。ラザロを葬る人はいなかったでしょう。彼のからだは、外に捨てられたものと思われます。しかし、彼の魂は、御使いたちによってアブラハムのふところ、安息の場所(天国)へと運ばれたのです。また、金持ちも死にました。彼のために豪華な葬儀が行われたことでしょう。しかし、彼の魂は天国ではなく、火で焼かれる裁きの場へと運ばれたのです。金持ちは、苦しみの中で、ラザロがアブラハムのふところにいるのを見ました。彼は叫んでアブラハムに言ったとあります。24節「父アブラハム様。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」25節で、アブラハムは彼に言ったとあります。「子よ。思い出して見なさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」お金持ちは、神様から与えられた財産を自分を楽しませるためだけに使いました。聖書に、多く与えられたものは多く求められるということばがあります。この金持ちは、貧しい人にあわれみの心を閉じ、目を向けませんでした。その報いが、火による裁きでした。ラザロは貧しい生活の中、神様への信頼を無くしませんでした。その、信仰と忍耐のゆえ、彼の魂はアブラハムのふところへと運ばれたのです。

お金持ちは、自分の五人の兄弟には、同じ苦しみにあわないようにラザロを自分の家に遣わしてくださいとアブラハムにお願いしました。しかし、アブラハムは「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」と言われました。お金持ちはアブラハムに言いました。30節「いいえ、父アブラハム、もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」アブラハムは彼に言いました。31節「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」「モーセと預言者」とは、旧約聖書を指したことばです。また、それは、神様のことば聖書全体を指すことばです。お金持ちは、死んだ者が生き返って兄弟のところに行くなら、彼らも神様を信じるだろうと考えましたが、アブラハムはそうではないと言われました。救いの道は聖書に記されているので、聖書のことばに耳を傾けない限りだれも救われないと言われたのです。

イエス様を信じて救われるとはどういうことでしょうか。私たちはイエス様の何を信じて救われるのでしょうか。世界中にたくさんの宗教がありますが,救い(天国に入る)方法を具体的に教えているのはキリスト教だけです。(1)イエス・キリストが神の子であることを信じる。(2)イエス・キリストは処女マリヤから生まれたことを信じる。(3)イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたことを信じる。(4)イエス・キリストは死より三日めに復活して天に昇っていかれたことを信じる。私たちの罪が赦されるためには、罪のない、完全な犠牲が必要でした。罪のない完全な犠牲、それは、神の子であるイエス様のいのちしかありません。イエス様は私たちの身代わりに死ぬために処女マリヤから生まれ、ひとりの人間となられました。そして、一つも罪を犯すことなく、十字架で殺されたのです。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活して、父なる神のもとに昇られたのです。人間には、自分の罪の問題を解決できないので、神の子が代わりに犠牲となり私たちを救って下さたのです。それを信じることが信仰です。ユダヤ人たちは、神の子が人となり罪人の身代わりに十字架の上で死なれたことを受け入れませんでした。現在でも、イエス様が歴史的人物であると認めても、多くの人々は、イエス様が神の子であることを信じることは出来ません。また、多くの人々は、自分の罪の重さを知らず、神の子の身代わりのいのちが必要とも考えません。人は死んだら裁きを受けなければならないと聖書に有ります。私たちはその裁きの日をどのように迎えたらよいのでしょうか。