不正な管理人

「不正な管理人」ルカの福音書16章1節~13節

聖書のお話は、読んだだけで理解できる所もありますが、専門に学んだ者(牧師、宣教師)に教えてもらわなければ理解できない箇所もあります。今日の聖書の箇所は、説明されないと理解できない、または、間違って理解しやすい難しい箇所です。

1節「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。」とあります。先週は、律法学者パリサイ人たちに話された例え話でしたが、今日の箇所は、イエス様の弟子たちに話された例え話です。また、イエス様はルカの福音書14章27節で「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言われました。イエス様の弟子として自分の十字架を負ってイエス様について行く決心をした弟子たちに、イエス様はこのお話をされたのです。

あるお金持ちの管理人が主人の財産を乱費していることがばれてしまいました。主人は彼を呼びつけ、もう管理を任せておけないから会計の報告を出すように彼に命じました。管理人は自分の仕事が取り上げられるために今後のことを思案しました。そして、彼が行ったことは、主人の債務者たちを一人一人呼び、証文を書き換えることでした。油百バテ借りのある者には、五十と書き換え、小麦百コルの者には八十と書き換えさせたのです。それによって、主人に借りのあった者が、自分が仕事を失っても親切にしてくれるだろうと考えたからでした。8節「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。」とあります。この世の子らとは神様を信じていない人々を指し、光の子らとは、神様を信じる者たちを指しています。この世の人々は、自分がこの世で生き抜くために、神を信じる者よりも一生懸命働くそのなりふりかまわず、自分のために働く姿をほめたのです。9節「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」ここで言われている「不正の富」とは、この世の財産(仕事)のことを指しています。この世の事(仕事)に一生懸命働くことによって、この世だけではなく、永遠の世界にも住まいが準備されるという事です。10節「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。」とあります。「小さい事」とは、「この世の事」「大きい事」とは、「神様の働き」を指します。この世のことに忠実ではない人は、神様のことにおいても忠実ではないという意味です。また、「この世の事」に忠実な人は、神様の働きにも忠実な人だとイエス様は言われたのです。11節「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら,だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」とあります。ここで言われている「不正の富」とは、この世の仕事のこと、また、「まことの富」とは神様の働きのことを指しています。この世の仕事に一生懸命なれない者に、神様の働きは任せられないという意味です。12節「また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」とあります。ここで言われている「他人のもの」とは、「この世の冨」のことであり、「あなたがたのもの」とは、「神様のもの」を差したことばです。13節のことばがこのおはなしの結論です。13節「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また冨にも仕えるということはできません。」この言葉は、マタイの福音書6章24節でイエス様が群衆に話されたことばと同じです。光の子どもである私たちは、この世で一生懸命働きます。しかし、何のために働き、何を目的に働くか、また、誰に仕えるかが大切です。自分の財産を増やすために働くならそれは、冨に仕えることになります。この世のものはいつか消え去り、永遠に自分の財産とはなりません。しかし、神に仕え、神のために働くなら、私たちは、天に宝を積むことになるのです。これが、イエス様の弟子として、この世で生きていく姿だとイエス様は弟子たちに教えられたのです。

不正な管理人は、仕事を取り上げられた後のことを真剣に考えて、不正をして友を増やし、その後の生活が守られるように働きました。主人は、そのように、自分の将来のためになりふりかまわず一生懸命将来に備えたその姿をほめたのです。私たちも、世の終わりのとき、神様の前に立ち、この世でどのように生きたかを弁明しなければならないと聖書にあります。私たちは、世の終わりの時のために十分な準備ができているでしょうか。神様は、私たちにいのちを与え、健康を与え、生活に必要なものを与えてくださっています。私たちのものは、すべて、自分で得たものではなく、神様から与えられたものです。私たちはその神様から与えられたものを賢く用いているでしょうか。自分のために働き、自分だけの冨を蓄えていないでしょうか。私たち全ての者は、神様の前に立たなければなりません。その時、私たちは、神様に、良き、忠実なしもべだと言われる者でしょうか。イエス様の結論のことば、ふたりの主人に仕えることはできない、あなたがたは、神にも仕え、冨にも仕えることはできないということばを自分の生活に当てはめて考え、自分は何のために働き、何に仕えて生きているか自分自身に問いかけてみましょう。