天国の門

「天国の門」ルカの福音書13章22節~30節

イエス様が、エルサレムへの旅を続けておられる時、23節「主よ。救われる者は少ないのですか。」とイエス様に質問するものがいました。イエス様は彼にこのように言われました。24節「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入れなくなる人が多いのですから。」と言われました。「救われる者」とは、天国に入る者という意味です。日本人は仏教の影響で、死んだものは誰でも天国に行くと信じています。しかし、聖書はそのようには教えていません。天国は神の国です。神様は天国に入る基準を定めておられます。その基準は「罪がない者」です。神は愛の神と共に、義の神でもあります。愛の神はすべての人を救いたいと願いますが、義の神は罪を正しく裁かなければなりません。罪を犯したものはそれにふさわし罰を受けなければなりません。では、だれが神の前で罪がない者として立つことができるでしょうか。聖書は誰もいないと宣言しています。すると、すべての人が神の基準に合格できないので、誰も天国に入ることができなくなったしまいました。そこで、愛の神はご自分のひとり子イエス様を人として生まれさせて、十字架の上で私たちの罪の身代わりとされたのです。そして、イエス・キリストを神の子と信じる者の罪は赦し、天の国に入れてくださると神様が約束してくださったのです。

マタイの福音書7章13節14節に「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」先程は、「努力して狭い門から入りなさい。」と言われました。ここでイエス様は、二つの門について、お話になられました。「狭い門と大きな門。」狭い門は、いのちに至る門で、それを見出すものは少ないと言われています。また、大きな門は、滅びに至る門で、多くの者がそこから入っていくと記されています。聖書には、救いは、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によると教えています。他に救いの道はありません。それで、ある人は、キリスト教の教えは狭いと言います。神様が愛であるなら、仏教でも、イスラム教でも、どんな宗教でも、真面目に神様を信じていたら天国に行けると考えています。確かに、イエス・キリストが生まれなかったら、また、十字架で死ぬことがなかったらそういうことが言えたかもしれません。しかし、神の子イエス・キリストは歴史的事実として、十字架で殺されたのです。もし、イエス様のいのちの犠牲以外で人が救われるなら、神が自分の子を犠牲にするでしょうか。もし、キリストの十字架の犠牲以外に、救いの方法があるなら、イエス様の十字架の死は無駄になってしまいます。私たち罪人が救われるためには、罪を一度も犯したことのないいのちの犠牲が必要でした。イエス・キリストだけが、唯一、罪のない人として生まれたお方です。このイエス様が十字架で死なれたのです。他に救いなど考えられるでしょうか。それゆえ、聖書は救いはイエスを神の子と信じる信仰以外にはないと教えているのです。先ほどの、ルカの福音書13章24節では、「努力して狭い門から入りなさい。」と言われました。私たちは、努力して正しい人になって救われるわけではありません。イエス様が言われた、「努力して狭い門から入りなさい。」とは、努力して狭い門を見つけなさいと言う事です。広い門は見つけやすく、多くの者がその門を喜んで通って行きます。しかし、その門の行き着く先は滅びです。狭い門だけがいのちに至るのです。それゆえ、私たちは努力して、このいのちの門を探さねばならないのです。

ルカの福音書13章30節に「いいですか。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」とあります。マタイの福音書19章30節にも同じ言葉で終わっています。そして、イエス様は20章で、天の御国の例え話として、ぶどう園の主人の例え話をされたのです。このおはなしの中で、ぶどう園の主人は神様を指しています。そして、最初に雇われた人々は、朝から晩まで長い間働きました。ところが、主人は、最後に来た者(一時間しか働かなかった者)から賃金を払いました。また、その賃金は一日分の賃金だったのです。それを見た、最初に雇われた者たちは、主人がはじめの契約以上に賃金をくれるものと期待しました。ところが、主人が与えた賃金は、一時間働いた者と同じ、賃金でした。朝から働いた者たちは、主人に文句を言いました。しかし、主人は彼らにこのように言われたのです。13節?15節「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」朝早くから働いた者にとって一デナリは主人との契約による報酬です。しかし、最後の一時間しか働かない者に与えられた一デナリは、報酬ではなく、主人の気持ち、恵みです。ここでイエス様が言われた、朝早くから働いた者は、律法によって救いを求めるパリサイ人を指しています。また、最後に一時間しか働かなかった者を、罪人、貧しい者、異邦人を指しています。つまり、イエス様が言われたことは、「救い」は、努力して人間の力で得るものではなく、神様の恵みとして与えられるものだという事です。しかし、そのために、神様はイエス様という大きな犠牲を払って下さいました。それゆえ、私たちも、大きな犠牲を払って、救いに至る門を見つけなければならないのです。今は、恵みの時代です。誰でも神様に助けを求めるなら、神様は私たちの目を開いて下さり、救いの門を開いてくださるのです。