約束の聖霊

「約束の聖霊」ヨハネの福音書14章16節~19節

今日は、ペンテコステの日(聖霊降臨日)です。使徒の働き2章1節に「五旬節の日になって」とあります。五旬節とは、過越の祭りから数えて50日目の祭りという意味です。5節に「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが」とあります。神様は旧約聖書の律法でイスラエルの民に三つの祭りには、世界中どこに住んでいても、エルサレムに上り宮詣でをするように命じています。その三つとは。過越の祭り、仮庵の祭り、初穂の祭り(七週の祭り)で、初穂の祭りが五旬節の日に当たります。それゆえ、この五旬節の日には、世界中からユダヤ人、または、ユダヤ教に改宗した異邦人がたくさん集まり、エルサレムの町は多くの人々でにぎわっていたのです。

使徒の働き1章4節5節に「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もうまもなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」とあります。その約束の聖霊が、先ほどの使徒の働き2章で弟子たちの上に下ったのです。2節から4節「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響が起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」とあります。イエス様が弟子たちに約束されていた聖霊が弟子たちの上にとどまったのです。聖霊に満たされた弟子たちは、外に出て行って他国のことばで話し始めました。彼らは、自分も知らないことばで御霊が語るとおりに話し始めたのです。彼らには意味不明のことばでしたが、外国から来た人々には、彼らの語っていることばが理解できました。それは、自分の生まれた国のことばだったからです。弟子たちは、何を語り始めたのでしょうか。11節を見ると「あの人達が、私たちのいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」とあります。弟子たちが叫んでいたのは、「神様の大きなみわざ」でした。外国から来た人々も、弟子たちを通して、「神様の大きなみわざ」について聞いたのです。ところが、そこに居合わせたユダヤ人たちは、弟子たちがわけのわからないことばで叫んでいるのを見て、彼らは酒によっているのだと弟子たちをバカにしました。そこでペテロは、弟子たちの中から立ち上がり、この状況を旧約聖書を通して説明し、イエス様の救いについて説教をしました。すると、多くの人々がペテロの説教を聞いて悔い改め、その日だけで、三千人の人々が洗礼を受け、弟子たちのグループに加えられたのです。その日こそが、教会の誕生の日となり、教会は特別な記念日としたのです。

聖霊の働きについて。聖霊とは神と同じ人格の存在です。神様の性質に三位一体という性質があります。三位一体とは、父なる神と子なるイエス様と聖霊なる神は一つという意味です。旧約聖書では、神は唯一、ひとりだけと教えられています。そうすると、イエス様は神ではない存在となり、イエス様の神性を否定してしまうことになります。新約聖書では、イエス様を神と同じお方と表現しています。すると、旧約聖書と新約聖書の間に矛盾が生じます。また、イエス様は旧約聖書の教えを否定されませんでした。私たちはこの矛盾をどう乗り越えたら良いのでしょうか。その答えとして導かれた答えが三位一体という考え方です。一人の神の中に三つの人格(父、子、聖霊)が存在し、三つの人格が一つの神の中で調和している。これを私たちは一つの神として信じるという考えです。

また、そのひとつひとつの人格にはそれぞれ働きにより違いがあります。父なるかみは創造主。子なるキリストは救い主。聖霊なる神は、助け主としての働きがあります。ヨハネの福音書14章で、イエス様は天に昇られる前に、弟子たちにこのようにお話になられました。16節17節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」聖霊は、私たちの体を聖霊の宮として、永遠に私たちと共におられるお方なのです。もし、イエス様が天に昇っていかれなければ、私たちは、イエス様といつもいっしょにいることはできませんでした。私たちと共に聖霊がおられるということは、神が共におられる、イエス様が共におられると同じ事を表しているのです。

また、聖霊は、慰め主(カウンセラー)とも呼ばれます。聖霊は、私たちを義の道に導きますが、決して、私たちを強引に従わせるわけではありません。私たちは、聖霊の導きに従うこともできるし、従わないこともできます。しかし、もし、従わなければ、その結果も報いとして受けなければなりません。聖霊は、私たちをクリスチャンとして、幸いな人生を準備しておられますが、私たちがその道に歩まないなら、私たちの人生は決して祝福された人生とは言えないものになってしまうでしょう。神様は時間を超えて全てを知っておられるお方です。私たちは、明日のことも、一時間先のことも知らないものです。私たちは、どのように歩むべきでしょうか。聖霊の導きに従うか、自分の思いに従うか。神様は私たちを祝福するために、救って下さいました。また、共に歩むために聖霊を与えて下さいました。ヨハネの福音書14章18節「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」とイエス様は弟子たちと約束して下さいました。私たちは決して、神様から遠く離れた者ではありません。神は、永遠に私たちと共におられます。それがイエス様が弟子たちに与えられた約束なのです。