良きサマリヤ人の話

「良きサマリヤ人の話」ルカの福音書10章25節~37節

聖書は神の言葉です。しかし、神様が直接、聖書を書かれたという意味ではありません。聖書は、イエス様の弟子たちが書いたものです。それは神様がマタイやルカを選んで聖書を書かせたという意味です。また、神様はマタイやルカを完全に支配し、彼らの手を動かして書かせたと言う意味ではありません。神様はマタイやルカの性格を用い、彼らの考えを助けながら、福音書を完成させたのです。それゆえ、同じイエス様の生涯であっても、少しづつ違いがあります。その違いは、間違いではなく、表現の違いや目的の違いのゆえです。また、その違いのゆえに、イエス様の生涯を違った角度から見ることによって、更に深くイエス様のことを理解できるようになっているのです。

特に面白いのがルカの福音書です。なぜなら、ルカは一度もイエス様に会ったことのない人だからです。ルカは、パウロと出会い、彼に伝道されてクリスチャンとなり、パウロの協力者となった人です。ルカは、テオピロと言うローマ政府の高官にイエス様のことを伝えるためにルカの福音書を書きました。そのために、ルカは、イスラエルの国に行き、実際にイエス様と生活した人々から話を聞き、イエス様の生涯を書いたのです。それゆえ、後に、ルカのことを、医者であり、歴史家であると評価されています。

先ほど読んで頂きました聖書の箇所で、ルカの福音書10章25節から27節を見ると、律法の専門家がイエス様に「永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいか」と質問し、イエス様が「律法には、何と書いてありますか。」と律法学者に質問し、律法学者が「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と答えています。ところが、マタイの福音書、マルコの福音書では、同じ場面で、律法学者のほうが律法の中で大切な戒めは何かとイエス様に質問し、イエス様が、先ほどの「心を尽くし、思いを尽くして」と言う申命記6章5節のことばを答えています。この場面で大切なことは、どちらがこの答えを答えたかと言うことではなく、律法学者もイエス様も同じ意見であったと言う事です。しかし、ルカの福音書では、続けて律法学者が「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と問いかけ、その答えとしてイエス様は良きサマリヤ人の話をされたという事です。と言う事は、旧約聖書の中で大切な戒め永遠のいのちを得ることが何であるかと言う事においては、イエス様も律法学者同じ意見でした。しかし、「隣人」が誰であるかと言う事において違いがあったと言う事です。そして、イエス様はその違いをはっきりさせるために、この良きサマリヤ人の話をされたという事です。

この例え話の中で、半殺しになった人を見て、祭司とレビ人は、彼を助けることなく、知らないふりして、反対側を通り過ぎて行きました。ところが、サマリヤ人は彼を見てかわいそうに思い、彼を介抱し助けました。なぜ、祭司とレビ人は彼を助けることなく、見捨てたのでしょうか。ここに問題があります。祭司、レビ人は神に仕える者です。彼らは、神に仕える者として、常に自分を清く保っていなければならないと教えられていました。また、死人に触れる者は、自分に汚れを受けると教えられていたのです。それゆえ、祭司、レビ人は自分に汚れを受けないために、道で倒れている人に近づかなかったのです。彼らにとって大切なことは、倒れて死にそうな人を助けることよりも、自分を清く保つことだったのです。

ある時、イエス様が取税人(マタイ)の家で罪人と呼ばれる貧しい人々と共に食事をしている時、パリサイ人がイエス様を非難して言いました。マタイの福音書9章11節「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」パリサイ人や律法学者たちは、自分の身を清く守るために、罪人と交わってはいけないと教えられていたからです。イエス様は彼らに答えられました。12節13節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

ルカの福音書に戻って、イエス様は律法学者に言われました。36節『この三人の中で、だれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」律法学者はイエス様に答えました。37節「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエス様は彼に言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」祭司、レビ人は律法学者の姿を表しています。彼らは、律法の中で何が一番大切な戒めか知っていながら、自分を清く守るために、その戒めを守っていなかったのです。サマリヤ人とは、ユダヤの国の隣の民族ですが、ユダヤ人が最も嫌いな民族です。イエス様は皮肉を込めて、あなたがた(律法学者)より、律法を知らないサマリヤ人のほうが神様の戒めを守っていると言いたかったのです。

マタイの福音書5章43節「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われているのをあなたがたは聞いています。」ここで言われている「隣人」とは同じ国民を意味し、「敵」とは、ユダヤ人以外の民族(異邦人)を表したことばです。イエス様はさらに言われました。44節「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」しかし、私たちは、自分に敵対するもの、迫害するものを愛し、彼らのために祈ることができるでしょうか。先程の、良きサマリヤ人の例えは、そのような意味があるのです。自分を愛する者、自分の味方だけを愛するのではなく、自分を迫害する者、理解してくれない者のために祈りなさいと言う事なのです。そんなことが私たちにできるでしょうか。そこに、人間の限界があります。それゆえ、私たちが神様に助けを求める時、神様の力によって、自分の垣根を超えて、本当のサマリヤ人になることができるのです。それが、新約聖書の教えであり、イエス様が私たちに望んでおられる姿なのです。