天国とパラダイス

「天国とパラダイス」ルカの福音書23章39節~43節

イースターは日本語では、復活祭と呼ばれ、イエス・キリストが十字架に付けられ、殺され、三日目に死より復活して天に昇って行かれたことをお祝いする日です。それは、イエス様だけが天国に入ると言うことだけではなく、私たちイエス・キリストを神の子と信じるクリスチャンをも天国に入れてくださることの約束の保証の日でもあります。

イエス様が弟子たちから離れ、天の御国に昇る日が近づいた時、イエス様は弟子たちにこのように言われました。ヨハネの福音書14章1節2節「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」イエス・キリストが十字架に付けられて殺されただけなら、キリスト教は誕生したでしょうか。イエス様が十字架で殺され、復活した後、キリスト教は誕生しました。そして、弟子たちが人々にのべ伝えたのが、イエス様の復活でした。弟子たちはユダヤ教の迫害にあいながらもイエス様の復活をのべ伝えたのです。それほど、キリスト教にとってイエス様の復活は欠くことができない、キリスト教の中心であったのです。

死は誰にとっても恐ろしいもので、死からは誰も逃れることができません。貧乏人にも金持ちにも等しく死はやって来ます。若いからと安心できません。死はいつ訪れるか誰もわからないからです。だからこそ、私たちはその死に対して備えておかなければなりません。死への備えとは、葬儀のことや残していく家族のことだけではありません。自分の魂の行く所を備えるということです。死の恐ろしさは、死後どうなるかわからないとことにあります。はたして天国と地獄は本当に存在するのか。自分は死んで天国に無事に入ることができるのか。死後の世界は誰も知りません。しかし、聖書は、はっきりと天国は存在していると教えています。また、イエス様は、ご自分を信じる者を天国に入れるために、父のもと、天の御国に行くと弟子たちに約束されたのです。

ルカの福音書23章39節に、イエス様と同じように、イエス様の右と左に十字架につけられた人がいました。39節「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』といった。」とあります。もう一人は彼をたしなめて言いました。40節41節「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そしてイエス様に言いました。42節「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエス様は彼に言いました。43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様の右と左に同じように二人の犯罪人が十字架に付けられました。十字架の刑は当時、一番重い刑罰です。この二人は、イエス様とは違い、本当に十字架に付けられ殺されるような犯罪を犯した人でした。一人は、イエス様に、悪口を言い、今の十字架の苦しみから開放するように願いました。もう一人は、イエス様を神の人と信じ、死んだ後、イエス様のおられる天の御国に入ることを望みました。イエス様は彼の望みを聞いて「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださったのです。この人は、犯罪人で、罪を犯した人でした。それなのに、なぜ、天国に入る約束をいただけたのでしょうか。それは、彼が自分の罪を認め、イエス様と共にいることを願ったからです。聖書で教える信仰によって救われるとはそういうことです。

あるとき、イエス様は群衆にこのようなたとえ話しを話されました。ルカの福音書12章16節~21節「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』イエス様は自分の将来のためにたくわえることが無意味だと言われたわけではありません。この世のことだけではなく、死んだ後のためにも準備しなさいと言われたのです。

備えておくと言うことは、何に対しても大切な事ですが、死に対しては最も大切な事です。備えがしてあれば、突然の死に対して慌てることがありません。また、魂の行く所が定まっていれば恐れることもありません。死は終わりではありません。天国への旅立ちです。また、天においては、私たちの住む場所が備えられています。イエス様はそのために天に昇ると言われたのです。イースターは、イエス・キリストの復活を祝うお祭りですが、それだけではなく、私たちも終わりの日にイエス様と同じように復活し天国に迎えられることの保証の日でもあるのです。