神のキリスト

「神のキリスト」ルカの福音書9章10節~17節

新約聖書には、イエス様の生涯を描いた福音書が四つあります。(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカルカの福音書、ヨハネの福音書)福音書とは「イエス・キリストが神(神の子)」であることを伝えるために書かれた書物です。そのために、ユダヤ人のためにマタイが書いたマタイの福音書の初めに、マタイはイエス様の系図から書き始めました。旧約聖書において、救い主はダビデの家系から生まれると伝えられていたからです。また、新約聖書で紹介されているイエス様の奇蹟のお話も、イエス様が神の子として神様から与えられた権威を示す出来事ですが、しかし、弟子たちも群衆もイエス様を神の子と認めることができませんでした。それゆえ、弟子たちは湖の上で嵐にあうと信仰を失いパニック状態に陥ってしまったのです。群衆もイエス様の奇蹟を見て、預言者とは認めましたが、それ以上の方、神の子とまでは理解できなかったのです。その背景には、ユダヤ教の教えの影響がありました。旧約聖書で教える神様は偉大な神であり、その神が人として生まれるなど考えられないことだったのです。イエス・キリストが十字架に付けられ殺されたのはそのためでした。人が自分を神とすることは、神を冒涜する罪に値し、死刑にされることが律法で定められていたからです。

今日の聖書の個所、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人の人々のお腹を満たした奇蹟のお話は、四つの福音書全てに記された有名なお話です。ヨハネの福音書ではこのパンと魚は少年が持っていたお弁当であることまで記されています。このとき、弟子たちは失望していました。五つのパンと二匹の魚で何ができるか。この多くの群衆の前で、この五つのパンと二匹の魚は何の役にも立たないように思われました。しかし、イエス様はそのパンと魚を私のところに持ってきなさいといわれました。イエス様が祈って弟子たちに配らせると、男だけで五千人もいたのに、皆が満腹しただけではなく、余ったパン切れを集めると、十二かごにいっぱい集まったのです。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。また、そこにいた群衆も驚きました。弟子たちや群衆は何を考えたでしょう。彼らが心に思い描いたのは旧約聖書に登場したモーセではなかったでしょうか。また、旧約聖書には預言者エリヤの弟子エリシャが20個のパンで100人の人々を満腹指させたお話がありました。彼らは、イエス様をモーセや偉大な預言者と理解したのです。しかし、イエス様にとって弟子たちの理解は十分なものではありませんでした。イエス様は弟子たちに18節「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねられました。弟子たちは答えました。19節「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」また、イエス様は弟子たちに言われました。20節「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言いました。「神のキリストです。」マタイの福音書では、イエス様はペテロにこのように言っています。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしめしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」また、マタイの福音書もルカの福音書も、イエス様は弟子たちにご自分がキリストであることを誰にも言わないように戒めています。それは、弟子たちの理解がまだ不十分だったからです。

ヨハネの福音書では、この出来事をさらに深く掘り下げて、イエス・キリストこそが天から与えられるまことのパンであると霊的にこの出来事を説明しています。ヨハネの福音書が書かれたのは、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書が書かれてから、かなりの時間が経ってから書かれました。AD90年ごろと言われています。イエス様は群衆に言われました。ヨハネの福音書6章56節58節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べるものは永遠に生きます。」このことばを聞いて多くのものがイエス様から去って行ったとあります。イエス様が言われた意味を理解することができなかったからです。

ずいぶん前に、イエス様の生涯を取り上げたテレビ番組を見ました。番組の最後に司会者がこの五つのパンと二匹の魚で男五千人を満腹にした奇蹟を紹介しました。彼はこのようにこの出来事を紹介しました。イエス様の周りにたくさんの人々が集まり、弟子たちはそのとき食べ物を持っていませんでした。食事の時間になり、一人の少年が自分のお弁当をイエス様に差し出したのです。それを見た群衆は少年の行為に感動し、自分の持っていたお弁当を周りに人々に分け与え始めたのです。それで、そこにいた五千人以上の人々のお腹が満たされました。聞いていると、確かに美しいお話のように思われます。しかし、聖書はこの出来事をそのように伝えているでしょうか。イエス様がどのようにして、五つのパンと二匹の魚を増やしたか私たちにはわかりません。しかし、この奇蹟は、イエス様がモーセや預言者エリヤ以上のお方であることをしました出来事でした。しかし、群衆も弟子たちもそのことに気がつかなかったのです。後に、イエス様の弟子のヨハネは、この出来事の本当の意味に気がつきました。それゆえ、自分が書いたヨハネの福音書にイエス様が行われた本当の意味を紹介したのです。

もう一度、最初のお話に戻ります。イエス・キリストが誰であるのか。それが新約聖書が書かれた理由です。イエス様は弟子たちに自分のことを誰と言うかと尋ねられました。イエス・キリストは偉大な預言者でしょうか。それならば、イエス・キリストは十字架の上で殺されることはなかったでしょう。なぜ、イエス・キリストは十字架の上で殺されなければならなかったのでしょう。それは、イエス・キリストが真の神の子であるからでした。そして、その神の子が十字架の上で私たちの罪の身代わりのために死ななければ私たちの救いはありえませんでした。イエス・キリストの十字架の死、それが私たちの救いであり、イエス・キリストを信じることによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちを持つものとされたのです。これが、聖書が私たちに教えていることです。あなたはそのことを信じることができるでしょうか。