イエス様の権威(前)自然、悪霊

「イエス様の権威(前)自然、悪霊」ルカの福音書8章22節~39節

ルカの福音書8章22節から56節で、イエス様は四つの奇蹟を行われました。

(1)風と波を静める
(2)悪霊を追い出す
(3)病をいやす
(4)死人を生き返らせる。

この四つの奇蹟は、人間の力を超えた神の領域に値する力で、この奇蹟はイエス様が神の権威を与えられたお方であることを証明した出来事なのです。

イエス様と弟子たちが舟で、ガリラヤ湖の対岸に向かわれた時、突風が吹き荒れ、波が高くなって舟が沈みそうになりました。イエス様の弟子の中の何人かは、ガリラヤの漁師でした。それゆえ、彼らは海(湖)の恐ろしさを十分理解していました。その彼らが恐れたのですから、大変危険な状態の中にありました。そのような中、イエス様は静かに眠ったままでした。弟子たちは急いでイエス様を起こして助けを求めました。イエス様は起き上がって風と波をしかりつけたとあります。すると、風と波が収まりなぎになりました。弟子たちは驚いたことでしょう。イエス様は弟子たちに言われました。25節「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」マタイの福音書8章26節では「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と弟子たちの信仰の薄さをしかっています。ここで、イエス様が弟子たちをしかられたのは、弟子たちが風と波を恐れて信仰をなくしたこと、神の子イエス様に対する(信頼)信仰の薄さをしかられたのです。弟子たちはこれまで数々の奇蹟を体験してきたはずです。イエス様がただの預言者ではなく、預言者以上、神の権威をお持ちの方だと信じてきたはずです。その弟子たちが、風と波を見て信仰を失ってしまったのです。自然の力に人間は無力です。何もすることができません。この時、弟子たちは死を覚悟したことでしょう。しかし、イエス様は違いました。イエス様は自分が自然をも収める力がある事を知っておられたのです。弟子たちはこの出来事を通して、あらためて、自然さえ収める力をお持ちのイエス様の権威に驚いたのです。

イエス様たちが、対岸のゲラサ人の地方に到着すると、悪霊につかれた男がイエス様を迎えに出てきました。この男は、長い間着物も着けず、家に住まないで、墓場に住んでいたと書かれています。男はイエス様の前にひれ伏して叫びました。28節「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」悪霊は、人間の恐怖が生み出した架空の存在ではありません。神様と同じ霊的な存在です。また、悪霊は、人の心を支配し、破滅へと導きます。イエス様が名を尋ねると、男は「レギオンです。」と答えました。レギオンとは、ローマの軍隊の一軍団(約六千人)を表すことばで、たくさんという意味もあります。この男の心はたくさんの悪霊に支配されていたのです。悪霊はイエス様に、豚の群れの中に入ることを願いました。イエス様がそれを許されると、悪霊たちは、その男から離れ、豚の群れに入り、その豚の群れは、いきなりがけを下って湖の中に入りおぼれて死んでしまいました。それを知った人々はすっかりおびえてしまい、イエス様にこの村から立ち去るようにお願いしたのです。イエス様はなぜ、悪霊の願いを聞かれたのでしょうか。悪霊たちは、初めから、豚の群れに入り豚を大量に殺すことによって、イエス様をこの村から去らせる計画ではなかったのでしょうか。そういう意味では、悪霊の思惑通り、人々はイエス様を恐れ、イエス様をこの地で宣教の働きができずに追い返すことに成功したように見えます。しかし、イエス様の一番の願いは、この男から悪霊を追い出すことにありました。この男は、悪霊が出ると着物を着て、正気に返ってイエス様の足元に座っていたとあります。そして、彼は、イエス様と一緒にいることを望み、イエス様の弟子になりたいと申し出ました。しかし、イエス様は彼に言われました。39節「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」イエス様はあえて、彼をこの地に残されました。それは、自分の代わりに、この地で彼に宣教の働きをさせるためでした。イエス様はいつかは、この村を出て行かなければなりません。しかし、彼はこの村の男性ですから、この先、長くこの村で暮らします。それを考えると、イエス様がこの地に残るよりも、悪霊から解放された彼の働きの方が、この地に必要だとイエス様は判断されたのです。悪霊の勝利のように見えて、実は、初めから、イエス様はそのように計画されていたのです。

ゲラサ人たちは、イエス様によってこの男から悪霊が追い出されたのですから、イエス様に感謝するはずです。それなのに、なぜ、彼らはイエス様を追い返したのでしょうか。彼らは大量に豚を飼っていました。彼らにとって、一人の男より、お金儲けが第一で、イエス様がこの村に滞在することによってもっと被害が広がると考えたのです。そこで、イエス様をこの村から追い出したのです。彼らの心はお金に支配されていました。彼らには聞く耳が準備されていなかったのです。

自然の力は大きく、人間の力では防ぎようがありません。三年前の東北で起こった津波が記憶に残っています。弟子たちは、イエス様には神の力、神の権威があることを知っていました。しかし、自分たちに危険が迫った時、イエス様に自然を収める力があるとは信じなかったのです。弟子たちは、この出来事を通して、イエス様に与えられた権威の大きさと力にあらためて、驚かされたのです。悪霊に対しても、人間ではどうしようもありません。悪霊は神様と同じ霊的存在で人間より力があります。それゆえ、ゲラサ人たちは、この男を捕えることもできなかったのです。また、悪霊はイエス様の権威を認めイエス様を恐れていました。しかし、ゲラサ人たちは、イエス様が、悪霊を追い出し、神の権威を示したにも関わらず、イエス様を必要とはしませんでした。それどころか、お金儲けの妨げになると考え、イエス様を追い返してしまったのです。ゲラサ人たちは、悪霊には支配されていませんでしたが、お金に支配されていました。彼らは、神の支配を望まず、お金に支配されることを選んだのです。私たちはどうでしょうか。確かに、お金は私たちの生活に必要です。しかし、ともすると、私たちは、神様に頼るよりも、お金の力に頼っていないでしょうか。イエス様のところに来て、永遠のいのちについて尋ねたお金持ちの青年がいました。イエス様は彼に、財産を貧しい人々に施して、わたしについて来なさいと言われました。しかし、その青年はイエス様のもとから離れていったとあります。彼は、神様を求めながら富にも頼っていたのです。イエス様は、神か富かどちらかを選ぶように彼に決断を迫ったのです。そして、彼は財産を選びイエス様のもとから去って行きました。イエス様は弟子たちに、二人の主人に仕えることはできないと言われました、私たちは、神と富と両方に仕えることはできないのです。神と富、どちらに力があるでしょうか。神と富、私たちはどちらを頼りにしているでしょうか。