多くの罪が赦された女

「多くの罪が赦された女」ルカの福音書7章36節~49節

私たちが、聖書を理解しようとするとき、まず、全体の構造から理解しなければなりません。今日の聖書の中では、ルカの福音書7章36節から49節の個所で、ルカは私たちに何を伝えようとしているのか、そのテーマを考えることが重要です。今日のお話のテーマは「罪の赦し」です。もっと具体的にあげるなら「罪の大きさとその罪の赦し」と言うことが言えるでしょう。

今日の聖書の個所で、イエス様以外に二人の人が登場します。一人は、罪深いと後ろ指さされる女性とイエス様を家に招いたパリサイ人です。36節で「あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエス様を招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。」とあります。当時、パリサイ人たちは、イエス様を律法の教師とも認めないで、いかがわしい者と思い、イエス様の教えを否定していました。その中で、このシモンと呼ばれる人物は、直接、イエス様が何者であるかを知ろうとしてイエス様を招いたのです。(イエス様をもてなすためではなく、イエス様を品定めするために食事に招いた。)37節38節「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」とあります。ここに登場する「罪深い女」と呼ばれる女性を、欄外では、「不道徳な女」とも表しています。そこで、この女性が言われている罪とは、盗みや詐欺などの類ではなく、身を売る女性、遊女である可能性が高いと思われます。街中で彼女がそのような商売をしていることを多くの人々が知っていたのです。シモンはこの状況を見て考えました。39節「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ、この女は罪深い者なのだから」この個所を通して、シモンがイエス様を善意で招いたのではなく、イエス様が本物の預言者か偽者かを見抜こうとする彼の思いが表されています。ここで問題になるのは、なぜ、彼女がそのような行動をとったかということです。もし、彼女が自分の罪を赦されるために、イエス様の御足を拭ったとしたら、このお話は私たちに善行を教えるお話となります。しかし、この個所はそのような善行を教えた個所ではありません。イエス様も47節で「この女の多くの罪は赦されている」「それは彼女がよけい愛したからです。」と説明しています。この女性は自分の罪が赦されるためにイエス様の御足を拭ったのではなく、すでに、自分の罪が赦されたから、感謝の気持ちでイエス様の御足を自分の涙でぬらし、自分の髪で拭ったのです。そう考えると、この女性とイエス様との出会いがすでにあったと考えられます。聖書には書かれていませんが、彼女が遊女をしているとき、イエス様と出会い、自分の罪を悔い改め、遊女をやめて、新しく生きることを決心した。彼女は、そのような罪の生活から救われ、この感謝の気持ちをイエス様に伝えたいと言う思いを持った。そんな時、イエス様がシモンの家に招かれたことを知り、急いで、家に帰り、香油を持ってイエス様の所に駆けつけたと言うことではないでしょうか。

ここでもう一つの問題は、イエス様がシモンに一つの質問をされたことにあります。41節42節「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」彼は答えました。43節「よけいに赦してもらったほうだと思います。」イエス様は彼に言われました。43節「あなたの判断は当たっています。」イエス様はなぜ、このような質問をシモンにされたのでしょうか。それは、彼が自分の罪に気づいていないからです。シモンはこの女性を罪の深い女性と軽蔑しています。イエス様は彼に、自分もこの女性と同じ罪人であることを教えようとされたのです。パリサイ人とは、ユダヤ教の指導者で、旧約聖書の戒めを守るように人々に教える人です。また、彼らは正しい行いを通して神様に自分が義であることを認めてもらおうと熱心に戒めを守る人々です。しかし、彼らにも罪はあるはずです。彼らはそれに気づかずに、戒めを守れない人々を罪人と呼び、さげすんでいたのです。しかし、この女性はイエス様によって多くの罪が赦された者でした。それゆえに、彼女は自分ができる精一杯の感謝の気持ちをイエス様に表したのです。

44節から46節でイエス様はシモンに言われました。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入ってきたとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入ってきたときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」と言われました。イエス様がシモンに言われた、「足を洗う水を出すこと、主人が客に口づけすること、頭に油を塗ること」は、当時のお客を招くときのしきたりでした。シモンはそれをイエス様にしなかった。ということは、シモンはイエス様を招いたにもかかわらず、客として招かなかったということです。シモンは、イエスが何者かを探るために家に招いただけで、イエス様に対する尊敬も畏れもなかったのです。そこで、この女性がイエス様にしたことと対比させて、シモン自身の罪に気づかせようとされたのです。48節でイエス様は彼女に言われました。「あなたの罪は赦されています。」それを聞いて人々は、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」と心の中で言ったとあります。人の罪を赦すことができるのは神様だけです。人々はそれを知っているので、イエス様が「あなたの罪は赦されています。」と言われたので驚いたのです。また、50節でイエス様は彼女に言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」彼女の信仰とはどのような信仰でしょうか。それは、イエス・キリストに人の罪を赦す権威を認める信仰です。それは、イエス様を神、又は、神様から遣わされた方と信じる信仰と言うことです。イエス様を招いたシモンにはそれがなかったのです。

では、この聖書の個所は結論として、私たちに何を教えているでしょうか。

1、私たちにも罪があるということ。私たちもイエス様によって罪を赦していただかなければならない者であるということです。

2、イエス様によって罪赦された者はどのように生きるべきかということです。

イエス様によって罪赦された女性は、イエス様に対して自分ができる最大に感謝の気持ちを行動で表しました。もし、私たちが海でおぼれているところを助けられたとしたら、助けてくれた人にどれほど感謝するでしょう。ましてや、自分のいのちを犠牲にして助けられたのなら、犠牲となった人のために生きたいと願うのはあたりまえではないでしょうか。それが、献身です。献身とは、牧師、宣教師となることだけではありません。自らを犠牲にして私たちを助けてくださったキリストのために生きることです。私たちはどれぐらいの罪が赦された者でしょうか。

私たちはどれぐらいイエス様に感謝して生きているでしょうか。