神の約束を信じる信仰

「神の約束を信じる信仰」ヨシュア記1章1節~9節

今年も5月を迎えようとしています。この時期、五月病という言葉を耳にします。五月病とは、正式な病名ではなく、通称で、病院では、適応障害、または、うつ病と診断されます。ただ、この時期に、多くの人々が同じような症状をしめすために、一般に五月病と呼ばれるようになりました。その症状は、やるきがでない、疲れ、めまい、不眠、胃の痛み、食欲不振、動悸、息苦しさ、人と関わるのがおっくうになる、などです。また、次のような性格の人が五月病にかかりやすいと言われています。真面目、完璧主義、責任感が強い、内向的、感情を表に出さない、周りに合わせる、色々なことを気にする、などです。五月病の原因は、新しい環境に慣れないストレスと新しい人間関係によるストレスが原因です。それゆえ、対処法としては、運動をする、歌を歌う、良く寝る、心を許せる友人と話をする、好きな映画を見る、好きな本を読む。好きな音楽を聞く、自然の多い所に行く、一日中だらだらするなどが有効とされています。ストレスはためすぎると心に負担を与え、体にも影響を与えるようになります。新しい環境、新しい人間関係でストレスを感じない人はいません。誰でもストレスは受けますが、それをため込まないで、ストレスを発散させながら、生活することが大切です。その方法は人によって違いがあります。音楽が好きな人、運動が好きな人、自然が好きな人など、自分に合ったストレスの解消法を見つけることが大切かもしれません。また、自分の悩みを人に相談する(話す)ことによって、心の重荷を軽くすることができます。一人で悩み、ストレスを持ち続けると、うつ病にもなりかねません。早く対応すれば、それだけ、早く苦しみから解放されます。人は一人では生きられません。信頼できる友人を得ることは、その人の人生を豊かにします。また、私たちを愛しておられる真の神と出会うことは、生きる力となります。元々、人間は神によって創られた者です。その創り主との出会いが私たちの人生を大きく変える出会いとなるのです。

旧約聖書に登場するヨシュアという人は、神様から大きなストレスを与えられた人です。今まで、ヨシュアは偉大な指導者モーセの従者(弟子)として、モーセと共に荒野を歩んできました。しかし、あと少しで、目的地のカナンに近づいたという時、師匠であるモーセが亡くなり、神様はその後、ヨシュアをリーダーとして、カナンの地を征服するようにヨシュアに命じられたのです。ヨシュアはどんなに恐れたことでしょう。あのモーセですら、イスラエルの民は逆らい、モーセは苦労して40年の間、荒野で男性だけで60万人(全体で百万人以上)の人々を導いてきました。その苦労を見てきた、ヨシュアにとって、とうてい引き受けることができる命令ではありません。しかし、神様はそのことを良くご存知でした。ヨシュア記の1章を見ると、ヨシュアに対して、たくさんの神様からの励ましの言葉が与えられています。5節「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたに立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」6節「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

モーセが偉大であったのは、彼の力によるところだったのでしょうか。モーセは、イスラエルの民をエジプトの国から助け出すために、十の災害をエジプト中に与えました。しかし、それは、モーセの力ではなく、神様の力でした。モーセがあれほどの奇蹟を行えたのも、モーセと共に神がおられたからです。神様は、ヨシュアに対して、モーセといたと同じようにあなたと共にいると約束して下さいました。その約束の言葉は、ヨシュアにとってどんなに大きな約束のことばとなったことでしょう。この後、ヨシュアは、大きなヨルダン川をイスラエルの民百万人とともに渡らなければなりませんでした。その時、神様は、モーセが紅海を二つに分けて、イスラエルの民が歩いて海の乾いた地を渡ったように、ヨルダン川をせきとめ、ヨシュアたちもまた、ヨルダン川の乾いた地を渡ってカナンの地へと渡ることができました。それは、神様の約束の成就と言えます。モーセと共に神様がおられたと同じように、ヨシュアと共に神様がおられることの証明となったのです。その後、イスラエルの民は、カナン人を追い出し、神様がアブラハムに約束された地を征服することができたのです。

旧約聖書の時代は、神様に選ばれた特別な人(アブラハムやモーセ、ヨシュアなど)とだけ神様は共におられると約束してくださいましした。しかし、新約聖書において、イエス様は、ご自分が天に昇って行かれる前に、ご自分の代わりに聖霊を与えると約束して下さいました。聖霊は、三位一体の神の一人格です。その聖霊が、イエス様を神の子と信じる者に与えると約束して下さいました。それゆえ、イエス様を神の子信じる者の心の中に、神と同じ性質をお持ちの聖霊様が住んでくださいます。今、私たちは、アブラハムやモーセのような偉大な人物ではありませんが、イエス様の憐れみによって、神様が共におられるという素晴らしい約束をいただいています。元々、私たちは神によって創られた者として、神様との親しい関係を持っていました。しかし、私たちは自分の罪のゆえにその特権を失ってしまいました。しかし、イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれることによって、私たちの罪は赦され、もう一度、イエス様によって神様との親しい関係を回復することができたのです。私たちはこの地上において、なおも罪人ですが、神様はそんな罪人と共にいてくださると約束して下さったのです。今、ヨシュアが受けた特別な恵みを、私たちはイエス様を通してただでいただける恵みの時代に生きているのです。神がモーセと共におられたように、私たちとも共におられる。この約束は神がイエス様を神の子と信じる者すべてに与えてくださる約束です。私たちの長い人生には、苦しみや悲しみ、危険があります。しかし、いつでも、どんな時でも、神は共にいてくださり、私たちを捨てないと約束してくださいました。実は、聖書が教える信仰とは、神様の約束を信じることです。また、この神様の約束を信じるということは、この約束をしてくださる神様の真実(愛)を信じるということです。人を信じる愛することも理論ではなく、体験が必要です。神様との関係も同じです。神様のことばを信じて、一歩踏み出す時、確かに、神様は真実なお方であるということを私たちは体験を持って、信じることができるのです。神様は目に見えないお方です。しかし、その神が共にいてくださる。この約束はヨシュアだけではなく、どれほど、私たちを励まし勇気をくれる約束でしょう。