バプテスマのヨハネと救い主イエス

「バプテスマのヨハネと救い主イエス」ルカの福音書3章15節~22節

昨年の12月29日の説教で、バプテスマのヨハネのお話しをしました。彼は、祭司ザカリヤとエリサベツの老夫婦に与えられた奇跡の子でした。また、彼は、旧約聖書で預言された救い主の前に道を整える偉大な預言者となる者でした。彼が30歳になった時、神様のことばが彼の上に下り、ユダヤ人に悔い改めのバプテスマ(洗礼)を受けるように呼びかけました。人々は、彼の説教に心刺され、多くのユダヤ人たちが、彼から洗礼を受けるために、彼のもとに集まり、自分の罪を悔い改め洗礼を受けました。また、その働きは、救い主の前に道を整える働きとなり、イエス様が公に登場する前に、救い主の前に悔い改めた民を整える働きとなったのです。15節「民衆は救い主を待ち望んでおり、みなの心の中で、ヨハネについてもしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、」とあります。民衆は、バプテスマのヨハネの働きを通して彼こそ、旧約聖書で預言されたキリスト、救い主ではないかと期待しました。しかし、彼はその考えを否定してこのように答えました。16節17節「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」彼は自分のことを後に来られる救い主と比べて「その方のくつのひもを解く値うちもありません。」と表現しました。当時、お客のくつのひもを解き、足を洗うことは、その家の一番身分の低い者の仕事でした。バプテスマのヨハネは、救い主と自分を比べて、くつのひもをとくことさえできないくらい、比較することさえできないくらい、自分が低い身分で、救い主が偉大なお方であることを人々に説明しようとしたのです。また、自分は水でバプテスマを授けているが、後に来られ救い主は「聖霊と火とのバプテスマ」を授けるお方であると説明しました。バプテスマのヨハネの授ける洗礼は水による洗礼でした。それは、一時的な体の汚れ(罪を)洗い清める働きでした。しかし、イエス様の授ける洗礼は「聖霊と火とのバプテスマ」であると説明しています。救い主、イエス・キリストの名によって受ける洗礼こそ、終わりの日の裁きから救われる洗礼です。バプテスマのヨハネは、あくまでも人間でした。人間が人間の罪を赦すことはできません。人の罪を赦すのは、神だけで、イエス・キリストはそのために人として生まれ、十字架の上で死んでよみがえられたのです。

ルカの福音書では、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが簡単に記されているだけです。(21節22節)しかし、マタイの福音書でマタイは詳しくその話を記録しています。マタイの福音書3章13節~17節「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネの所へ来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」イエス・キリストは唯一人として罪のないお方でした。それゆえ、イエス様は洗礼を受ける必要はありませんでした。それどころかバプテスマのヨハネがイエス様に言ったように、バプテスマのヨハネこそ、イエス様から洗礼を受けなければならない者でした。しかし、イエス様は、あえて、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのです。その理由は、15節「すべての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです。」と言われました。イエス様はこのとき、人としてすべての人が洗礼を受けなければ救われないことを人々に教えるために、人としてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのです。

この後、バプテスマのヨハネはヘロデ王に捕えられて首を切られて殺されてしまいました。イエス様はバプテスマのヨハネをこのように高く評価しまし。マタイの福音書11章7節~14節「この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し出した。『あなた方は、何を見に荒野に出かけていったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人たちですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれている人です。まことに、あなた方に告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。』

「女から生まれた者の中で」とは、「全ての人の中で」と言う意味です。イエス様は、人の中で一番偉いのはバプテスマのヨハネだと、彼の偉大さを認められておられました。しかし、その彼よりも、天の御国の一番小さい者の方が偉大だとイエス様は言われました。「天の御国の小さい者」とは、イエス様によって救われた者のことです。旧約聖書からバプテスマのヨハネまで、救いはありませんでした。「天の御国が激しく攻められている」とは、イエス様によって多くの者たちが、救われ、救いを自分のものにしていると言う意味です。旧約聖書の時代からバプテスマのヨハネまで、人はどんなに努力しても、自分を救うことはできませんでした。しかし、イエス様の登場によって時代は変わりました。イエス・キリストの登場によって神の国が人々に近づいたのです。確かに、バプテスマのヨハネは偉大な預言者でした。しかし、彼は人を救うことはできませんでした。人の罪を赦し、私たちを罪の中から救うのは、神の子イエス・キリストしかできない特別な働きなのです。

バプテスマのヨハネの働きも大切な働きでした。ユダヤ人に自分の罪を教え、悔い改めて洗礼を受けさせるとは、私たちが救われるためどうしても必要なことでした。現在の私たちにもそのことはかわりません。誰でも、自分の罪を認めない限り救いはありえないのです。そして、自分の罪を認めた後、イエス様の十字架の死が大きな意味を持つようになります。イエス・キリストは、神の子ゆえに、私たちの罪の身代わりとして死なれ、三日目に復活して天に昇っていかれました。またイエス・キリストは今も、天において生きておられます。それゆえ、現在の私たちの罪をも赦すことができるのです。