バプテスマのヨハネと悔い改め

「バプテスマのヨハネと悔い改め」ルカの福音書3章1節~9節

今年のクリスマスも終わりました。今年のクリスマス楽しく過ごすことができたでしょうか。石巻のクリスチャンセンターでも、7人の新しい人が集って一緒にクリスマスを迎えることができたとアラン宣教師から報告がありました。また、皆さんで作ったクリスマスリースも大変喜ばれたそうです。石巻クリスチャンセンターで初めて祝われたクリスマスでした。これからも石巻クリスチャンセンターが神様に用いられますようにお祈りしましょう。

今年の12月1日にクリスマスのお話しで、祭司のザカリヤと妻のエリサベツのお話をしました。二人は、神様の戒めを忠実に守り、神様に仕える身でしたが、二人にはこどもが生まれませんでした。ユダヤの国では、こどもをたくさん産む女性は神様に祝福された女性と喜ばれましたが、子を産めない女性は、神様に呪われた者と周りから軽蔑の目で見られていたのです。ザカリヤもエリサベツもこどもが与えられるように神様に祈り続けたことでしょう。しかし、二人は歳を取り、子を産む希望さえなくなってしまいました。そんな年老いた二人に御使いが現れて、エリサベツに子供が生まれると、ザカリヤに告げられたのです。しかも、その子は、旧約聖書で預言されていた、救い主の前に道を整える者として登場する預言者になると言うのです。ザカリヤは御使いのことばを信じることができませんでした。それゆえ、その子供が生まれるまで彼は、話ができなくされてしまいました。翌年、御使いが話したとおりに年老いたエリサベツにこどもが生まれました。そしてザカリヤも再び話せるようになり、御使いが言われたように、生まれた子にヨハネという名をつけたのです。

それから30年がたちました。ルカの福音書3章で、そのヨハネが突然、現れました。2節3節「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」とあります。バプテスマのヨハネが現れる前から、ユダヤ教の教えの中にバプテスマ(洗礼)の儀式は存在していました。しかし、それは、あくまでもユダヤ人ではない外国人(異邦人)がユダヤ教に改宗するためのものであり、ユダヤ人は洗礼を受けていませんでした。それは、ユダヤ人たちは選民意識が強く、自分たちは神様に選ばれた特別なアブラハムの子孫だから罪や汚れがない民だと自負していたからでした。バプテスマのヨハネはそんなユダヤ人に対して悔い改めを求めたのです。民衆はバプテスマのヨハネのことばに、心刺され、多くのユダヤ人たちが自分の罪を認めて、悔い改めのバプテスマを受けに集まってきました。ルカは、旧約聖書のイザヤ書の預言のことばをこのように紹介しています。4節~6節「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」当時、ユダヤ教のパリサイ派の人々は、どうやって神様の前に自分を正しくするかに熱心でした。そのために、彼らは旧約聖書を熱心に研究しました。しかし、次第に、彼らの心は神様から離れ、人々の前でいかに自分を正しく見せるかに代わってしまったのです。そんな彼らは絶対に自分の罪を認めようとしませんでした。それで、パリサイ派の人々は、バプテスマのヨハネを認めませんでした。しかし、民衆は、そのようなパリサイ人たちの教えに疲れていました。彼らは、パリサイ人たちが作り上げた膨大な戒めを守ることができずに苦しんでいたのです。そこに、バプテスマのヨハネが登場し、律法の教えを完全に守ることによって救われるのではなく、自分の罪を認めて洗礼を受けることによって罪が赦され救われるることを知らされました。そこで、多くの民衆がバプテスマのヨハネのところに来て、悔い改めのバプテスマを受けたのです。

旧約聖書イザヤの預言は、主の前に道を用意する者が登場するという預言でした。まさに、バプテスマのヨハネは、救い主イエス様の前に、道を整える者でした。その働きとは、人々に罪を教え、悔い改めて救いを受けることを教えることだったのです。その教えは、今の私たちにも同じことです。自分の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける、それによって私たちの罪は赦され、天の御国に招かれる者となるのです。私たちは、すでに、自分の罪を認め、悔い改めてイエス様によって救いの恵みをいただいた者でしょうか。

また、悔い改めは一度だけではありません。たとえ、悪事には荷担しなくても、神様を無視して自分の都合や自分の考え、計画を優先しなかったでしょうか。また、神様の御心と知りつつも、従えなかったことがどれほどあったでしょうか。今日、今年最後の聖餐式です。神様の前にこの一年間の歩みを思い起こし、悔い改める時間を持ちたいと思います。私たちはどんなに神様に不忠実な者だったでしょう。しかし、それでも、神様の愛は変わらずに、私たちの上にありました。また、今年一年、神様に守られてここまで来ることができました。神様への感謝はたくさんあります。新しい一年を迎えます。来年も、神様と共に歩むことができますようにお祈りします。