インマヌエル(神が共におられる)

「インマヌエル(神が共におられる)」マタイの福音書1章21節~23節

私は、クリスチャンになる以前から、神様はおられる。神は存在すると信じていました。しかし、その神様は宇宙のはるか遠くに存在し、宇宙全体を守っている神様というイメージでした。特定の宗教を信じていなくても神様の存在を信じている人々はたくさんいます。それゆえ、日本では毎年、初詣に何十万という人々が神社にお参りに行きます。それこそ無神論で、神様は存在しないとはっきり断言できる人のほうが少ないのが現実です。多くの人々は神様を知りたいと願っています。それは、神様が人間を作った証拠です。それゆえ、世界中にたくさんの神々が存在し、たくさんの宗教が存在しているのです。

では、本当の神様とはどのような神様でしょうか。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は唯一の神を信じています。神はお一人であって神々は存在しない、そして、その神は天地の創り主、創造者です。また、その神は、旧約聖書を通してご自身を人間に現されたと信じています。これを、唯一信仰と呼びます。もう一つの考え方を汎神論といいます。汎神論はすべてのもの、自然や人間さえ神と崇めます。富士山の頂上で朝日が昇るのを見て、多くの人々が、その美しさに感動して太陽に手を合わせ、太陽を拝みます。私もその自然の美しさに圧倒される思いでしたが、私は、そのような美しい自然を創造した神様のすばらしさに感動しました。

本当の神様を知らないと、私たちは神様を間違ったイメージで見てしまいます。例えば、神様はこわい存在で人間を罰する神様と言うイメージを持っている人々がたくさんいます。悪いことをしたら罰が当たると子供の頃、教えられました。聖書では、神様は「愛の神様」と紹介されています。神の愛とはどのようなものでしょうか。旧約聖書において、神様はご自身に似せて人間を創造されたと記されています。似せてとは神に近い存在、共通点があると言うことです。親が子を守ろうとする愛。自分の国を守るとする愛があります。それは、自分のいのちを犠牲にしても我が子を、我が国を守ろうとする強い愛です。しかし、神様の愛はそれ以上の愛です。先程、マタイの福音書1章23節をお読みしました。そこに、「インマヌエル」ということばがあります。その意味は、「神は私たちとともにおられる。」という意味だと紹介しています。イスラエルの民にとって神様は罪のない、唯一の神様です。その神様が、罪人である人間の世界に来られる、まして、人間として生まれるなど信じられないことです。実は、イエス・キリストの十字架の死はそのことと深く関わりがあるのです。イエス・キリストがユダヤ教の指導者たちに捕えられ、裁判にかけられた時、大祭司は、イエス様に対して、「あなたは、神の子かどうか答えなさい。」と訴えました。それに対してイエス様は、「あなたの言うとおり」と自分が神の子であることを認めたのです。ユダヤ教にとって人間が自分のことを神と宣言することは、神を侮辱することで、死刑に値する重い罪でした。イエス様もそのことは知っていたはずです。ここで、もし、イエス様が自分のことを預言者であると証言したら、大祭司はイエス様を死刑にすることはできませんでした。イエス様は自分が死刑の判決を受けるのを知った上で、自分を神の子であると認められたのです。それは、私たちの罪の身代わりとなり十字架の上で死に、私たちを罪の刑罰か救うと言う神様の計画を完成させるためでした。

インマヌエル、神が人となると言うことはどういうことでしょうか。例えば、私たちが、牛や馬と同じようにあつかわれて共に住むということができるでしょうか。また、私たちが、アリや芋虫のようになりたいと思う人はいないでしょう。神は、罪のない聖いお方です。また、私たちのように自然に支配される存在ではありません。新約聖書を見ると、イエス様が、お腹をすかせたり、疲れて休んだり、眠ったり、人間と全く同じになられた事がわかります。また、イエス様が生まれた時、イエス様は何もできない赤ちゃんとして生まれました。神の子が人の助けを必要とする者としてお生まれになられたのです。ユダヤ人たちはイエス様の奇跡を見ても、イエス様を神の子と認めませんでした。それは、彼らにとって神はあまりにも偉大で、神が人として生まれるなど信じられないことだったからです。しかし、神の愛は、私たちの想像以上に大きいな愛です。イエス・キリストはそのような恥ずかしさ、みじめさを超えて人として生まれてくださったのです。

キリスト教には二つの大きな神の恵みがあります。一つは、私たちの罪を赦すために人として生まれ、十字架の上で死んでくださったという、救いの恵みです。もう一つは、神が私たちと共に歩んでくださるという恵みです。イエス様は十字架の上で死んで終わりではありません。死より三日目に復活して天に昇っていかれました。その時、イエス様は弟子たちに、自分は父の御もとに行くが、弟子たちに、自分の代わりに聖霊を遣わすという約束をしてくださいました。聖霊は神様と同じ存在で、イエス様を信じる人の心の中に住むといわれます。それゆえ、イエス様は天に行かれましたが、聖霊が代わりに私たち一人一人と共に人生を歩んでくださるということです。以前、私は、目に見えない神様に頼るのではなく、自分に頼って生きていかなければならないと信じていました。しかし、次第に自分の限界に気づき、自分の弱さに気づくようになりました。そこで、人間の限界を超えた神様に心を向けるようになったのです。人間にはどうしても努力してもできないこと、どれだけ緻密に計画してもその通りに歩めないのが人生です。しかし、天地を造られた神様、私たちを愛してくださる神様が共におられたらどうでしょうか。これほど、心強いものはありません。以前、「あしあと」というクリスチャンが書いた詩を紹介しました。もう一度、その詩を紹介します。クリスチャンでも苦しみに遭います。そして、その苦しみが長くなると、私たちは神を見失い、神に見放された、神を遠くに感じる時があります。しかし、この詩はそんな苦しみの中でも、神様は、私たちを見捨てたり、遠くに離れておられるのではなく、私たちを背負い、一緒に歩んでいたことを教えています。ただ、私たちが苦しみの中で神様を見失っただけで、神様は永遠に私たちと共におられるお方であることを教えた詩です。

神様は、怒る神や恐ろしい神ではありません。愛の神です。また、遠くで私たちの苦しみをながめておられる神様でもありません。神様は私たちを愛し、人生を共に歩んでくださる神様です。クリスマスは、神が人として生まれてくださった特別な日です。それは、全世界の人の救いのためですが、あなたひとりの救いのためでもあり、また、神があなたと生涯を共に歩むために生まれた日でもあるのです。