請求書の祈りと領収書の祈り

「請求書の祈りと領収書の祈り」ルカの福音書18章1節~8節

カトリックのシスターで、ノートルダム清心女子大学の学長であった渡辺和子先生が書かれた「どんな時でも、人は笑顔になれる」を読んで、祈りについて考えさせられました。この本の中で、「請求書の宗教ではなく、領収書の宗教を」という個所があります。「ください。ください」と欲しいものをやみくもに願うことが真の祈りではありません。「たしかにいただきました。ありがとうございました」と、神様のくださるもの一つ一つ、しっかりいただいて感謝する「心」こそを、私たちは真に祈り求めるべきなのでしょう。」とありました。確かに、世界中にはたくさんの宗教があります。しかし、その多くの宗教が、神様に「ください、ください」という請求書のような祈りをしているのではないでしょうか。しかし、キリスト教は、そうではありません。渡辺先生が言われるように、神様が与えてくださるものをすべて(良いことも、悪いことも)、恵みと信じて受け取る宗教です。祈りにおいても、神様に請求書を突きつける祈りではなく、神様からの答えを受け取る、または、待つことがキリスト教の祈りです。たとえ、その答えが、自分の望む答えではなくても、神様が与えてくださった最善の答えとして、謙遜に受け取ることがキリスト教の祈りです。今日は、聖書から具体的に祈りとは何かについて学びます。

  • 求め続ける祈り。(ルカの福音書18章1節~8節)

この個所を読んで、何でも熱心に祈り続けるならば、神様は何でも叶えてくれると間違って理解してはいけません。この個所で、イエス様が私たちに教えようとされたのは、(1)いつでも祈るべきこと。(2)失望してはならないことを教えるためのたとえ話です。ここに登場する裁判官は、2節「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。そこに一人のやもめが登場します。このやもめは、3節「彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。」とあります。この悪い裁判官にとっては、やもめの訴えなど、どうでもいい訴えです。それゆえ、しばらくは、ほうっておいたのでしょう。ところが、このやもめは、何度も何度も、この裁判官に訴え続けました。その結果、5節「どうも、このやもめはうるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」この悪い裁判官は、やもめに同情して、彼女のために裁判をするのではなく、うるさくて仕方がないから、裁判官は自分のために裁判を行うことを決心したということです。イエス様はこのたとえ話の結論としてこのように言われました。6節~8節「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神に呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」ここでイエス様は、不正な裁判官と神様を対比的に述べています。不正な裁判官でも、熱心に訴え続けるならしかたなく、裁判を開いてくれる。なおのこと、神様が選民(ユダヤ民族)の祈りをいつまでも放っておくことはないという意味です。ただし、ここでイエス様が言われたことは神様は「正しいさばき」を行われるということで、私たちの願い通りにさばいてくださるという意味ではありません。

  • イエス様の祈り。(マタイの福音書26章36節~46節)

この個所は、イエス様が役人に捕らえられる前に、ゲッセマネで祈られた有名な場面です。イエス様はこの後、役人に捕らえられ、裁判に掛けられ、死刑の判決を受けて、十字架に付けられて殺されてしまいます。そのような、緊張した場面でイエス様は、父なる神様にこのように祈られました。39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」42節「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」ここで言われている「杯」とは、この後に行われる十字架の死を意味しています。イエス様の願は、十字架の死、以外の救いの完成です。十字架の刑は当時、最も苦しい死刑の方法でした。また、不名誉な刑罰でもありました。イエス様は、十字架の死を避けたいと思いましたが、しかし、最後は、神様のみこころ(計画)が行われることを願われました。これが、キリスト教の模範的な祈りです。

先ほどのお話で、私たちは決して、「請求書の祈り」をしてはいけないというわけではありません。主の祈りの中でも、「私たちの日ごとの糧をきょうもおあたえください。」という祈りの言葉があります。ただ、私たちの祈りの最後は「領収書の祈り」でなければならないということです。それは、イエス様が祈られたように、神様のみこころ(計画)がなされますようにと祈ること。自分の願ではなく、神様が下さる答えを最善の答えとして感謝して受け取るということです。

私たちは、明日のことも、10年先のこともわからない者です。しかし、神様は、時間に支配されないお方です。私たちの、10年後の姿、50年後の姿をも知っておられるお方です。詩篇の有名な個所に詩篇119篇71節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてをまなびました。」とあります。もし、この詩篇の作者が苦しみに会わなかったら神様のおきてを学ぶことはありませんでした。誰しも苦しみには会いたくありません。しかし、苦しみを通してでなければ学べないこともあります。ヘブル人への手紙12章11節「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実をむすばせます。」とあります。大切なことは、神様への信頼です。神様は私たちを苦しめるために、懲らしめを与えているのでしょうか。そうではありません。後の幸いのためです。そう考えるなら、乗り越えられない苦しみはありません。それも、一人で苦しみを負うのではなく、神様も共に負って下さる苦しみです。「あしあと」という有名な詩があります。作者は苦しみの時は、あしあとが一つだったので、一人で苦しみの中を歩いていたと思っていました。しかし、実は、そのあしあとは、神様のあしあとで、自分は知らずに神様に背負われていたことを気づかされたという詩です。神様は私たちに苦しみを与えて知らん顔をされる神様ではなく、苦しみを共に負われる神様です。そのことを覚える時、自分の願う答えではなくても、神様が与えてくださる答えならば、喜んで受け取ることができます。「祈りの領収書」それは、神様への信頼があって、はじめて受け取ることができる、神様の恵みなのです。