創造主神と神に造られた被造物人間

「創造主神と神に造られた被造物人間」創世記1章24節~28節

人はどうして生まれ、人は死んだらどうなるのか。人の生きる目的は何か。苦しみを我慢して生きる意味があるのか。そんなことを考えながら中学、高校と生活しました。しかし、誰もこの疑問に答えを与えてくれる人はいませんでした。社会に出て、そんなことを考えるのも馬鹿らしくなり、自分で生きる目標を設定して、それを目指して生きることを決心しました。それが、東京に出て自分の会社を作るという目標でした。実際に東京に出てきて、一生懸命目標に向かって生活をはじめました。初めは、目標に向かって生きる喜びがありました。また、目標達成のために、小さなステップを設定し、それを達成することに喜びがありました。しかし、同時に、自分の人生はこれで良いのか。生きるということはこういうことなのか、心のどこかに迷いがありました。そんな時に、教会に誘われ、聖書を読み礼拝に参加するようになりました。また、そこで人は偶然に生まれた者ではなく、造り主神様がおられ、私たちは全て、神様によっていのちが与えられ、神によって創られた被造物であることを教わったのです。その話を聞いた時、何か暗い心に光が差し込んだような気がしました。今まで、自分は、自分で生きる目的を見つけて、一生懸命それを目指して生きなければならないと考えていました。しかし、実はそうではなく、神様が私を祝福するために命を与え、私の人生についても最高の人生を備えてくださっていることを知り、肩の荷を下ろしたような感じでした。

創世記の1章2章3章は、創世記の土台であり、神様と人間との関係を教える最も大切な個所です。ここで神様は全ての創造の御業を六日間で完成されたと記されています。この六日間というのが、一日を24時間と考えての六日間と考える人々もいます。神様は無から有を産む神様ですから、六日間で全ての創造の業を完成されたと考えます。しかし、もう一つの考え方は、六日間という日にちの長さよりも、六つのステップで神様は創造の御業を完成されたという考え方です。神様は第一日目に、「光と闇を区別されました」第二日目に「大空の下の水と大空の上の水とを区別されました」。第三日目に「海と地上を分けられました。また、地上に植物が芽生えました。」第四日目に「太陽、月、星を作り、宇宙の法則を作られました。」第五日目「海の巨獣と鳥を創造されました。」第六日目に「家畜、はうもの、野の獣を」創造し、最後に人間を造られたことが記されています。この順番を見ると、全て人間が生きるために神様が特別に配慮して創造してくださったことがわかります。また、神様は26節「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と言われました。神様が人間をご自身に似せて特別に創造された目的は、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはうすべてのものを支配させるためでした。神様はそのために、人間をご自身に似せて造られたということです。それゆえ、神様にとって人間は特別な者として創造されたということです。また、次の創世記2章の7節では、具体的に神様は人をどのように造られたかが教えられています。7節「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」とあります。神は土地のちりで人の体を造られ、その鼻からいのちの息を吹き込まれました。この息という言葉は、霊とも訳されることばです。人は、外側の体だけではなく、神様からの息(霊・魂)を吹き込まれることによってはじめて生き物として歩み始めたという意味です。

神様はこの地上を管理する者として、人間を特別に創造してくださいましたが、サタンが人間に近づき、誘惑しました。人間はサタンの言葉に誘惑され、罪を犯し、神様から与えられた特権を失ってしまいました。初めの人、アダムとエバは、罪を犯した結果、死からは免れましたが、エデンの園から追放され、自分たちで働き、自分たちで自分の身を守らなければならない者となってしまいました。しかし、神は失敗した人間を見捨てたわけではありません。ここから神と人との長い歴史が始められたのです。それが記されたのが聖書です。旧約聖書の長い歴史を要約すると、人間は弱くいつも失敗してしまいますが、その人間の失敗(罪)を赦し、人間との関係を回復しようとする神様の愛の姿を見ます。また、それは、新約聖書に登場する救い主イエス様を誕生させるための歴史でもありました。新約聖書に入って、神様は具体的に、救い主イエス様を誕生させ、私たちの罪を赦すために、イエス様を十字架に付けて殺されました。しかし、イエス様は死より三日目に復活され、私たちの救いを完成され、天におられる父なる神のもとへ上って行かれたのです。今、私たちは自分の行いの正しさではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われ、神様との特別な関係を回復することができるようになりました。アダムとエバの罪から私たちが救われ、もう一度、神様との親しい関係を回復するために、神様は長い時間をかけて計画を実行してくださいました。また、神様は私たちを救うために、ご自身のひとり子イエス・キリストを十字架の上で犠牲とされました。それを考えるとなぜ、神様が私たちのためにそれほど大きな犠牲を支払われたのか理解できません。罪を犯したのは人間ですから、すぐに人間を殺して、新たに創造の御業をやり直せばよかったのです。そうすれば、ご自分のひとり子を犠牲にする必要はありませんでした。ここに神様が愛であることの証明があります。神様は、一度、いのちを与えられた人間を滅ぼすことを望まれなかったのです。それよりも、自分の方で犠牲を払い、痛みを負う方法を選ばれました。イザヤ書49章15節「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちがわすれても、このわたしはあなたをわすれない。」とあります。イザヤ書のこの個所で言われている「あなた」とは、具体的にはイスラエルの民を指していますが、広い意味では、私たちに対する神様のことばでもあります。神様はそれほどの愛を持って、私たち人間を特別な者として創造してくださったということです。

私は、自分自身を見て、神のひとり子イエス様を犠牲にしてまで、神様が私を罪から助けられたということを信じることはできませんでした。しかし、聖書を読むうちに、次第に神様の愛の深さに気付くようになりました。そして、分かったことは、私たちの救いと言うものは、私たちの正しさや行いによって評価するのではなく、神ご自身の一方的な愛によって始めてなされたことだということでした。神はどれほど大きな愛を持っておられることでしょう。それは、罪人を赦し、ご自身のひとり子を犠牲にする愛です。私たちには想像もできないほどの大きな愛ですが、それほど、大きな愛を持って創造主なる神は私たち一人一人に命を与えてくださったということです。