神の性質・三位一体(2)子なる神

「神の性質・三位一体(2)子なる神」マタイの福音書1章21節~23節

先週は父の日でしたので、三位一体というキリスト教の重要な教理から父なる神について学びました。今日は、(2)として、子なる神、イエス様について学びます。なぜ、三位一体という教えが重要なのかということは、前回、学びました。旧約聖書は一人の神しか認めていません。しかし、新約聖書では、イエス様も聖霊も神と認めています。そうすると、私たちは、新約聖書を捨てるか、旧約聖書を捨てて、新約聖書のみを神様のことばと信じ、父と子、聖霊の三人の神を信じるか、どちらかを選択しなければなりません。しかし、新約聖書の中で、イエス様の説教は、旧約聖書を引用してなされています。また、イエス様は旧約聖書を否定されませんでした。すると、この旧約聖書と新約聖書を結ぶためには、三位一体という神様の特別な性質を信じるより答えはありません。この矛盾を解決するために、教会は200年という長い時間をかけて議論し、はじめて、教会の正式な教理として認めることができたのです。

1.父と子と聖霊の役割。

三位一体という教えは、一人の神の中に、父と子と聖霊なる神が調和して存在しているという考えですが、それぞれの役割が違います。(1)父なる神は創造主。(2)子なるキリストは救い主。(3)聖霊なる神は慰め主。それぞれの役割が違うために、それぞれの仕事も異なってきます。今日は、救い主イエス・キリストについて学びます。

2.旧約聖書の預言の成就。

イエス様がお生まれになられる何百年も前から、救い主が生まれる。それもダビデの家系から救い主が生まれるということは、旧約聖書を神のことばと信じ、子どもの頃から教えられてきたユダヤ人にとって、当然のことで、特に、イエス様が生まれる時代、ローマという巨大な国に支配されていたユダヤ人にとっては、唯一の希望となっていました。救い主に関する預言(メシヤ預言)で一番有名なのが預言者イザヤでした。イザヤはイエス様が生まれる約700年も前の預言者ですが、救い主に関して、具体的に幾つかの預言をしています。マタイは、イエス様が処女のマリヤから生まれたことを、旧約聖書のイザヤ書の預言から説明しています。マタイの福音書1章22節23節「このすべての出来事は、主が預言者(イザヤ)を通して言われた事が成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」「イエス」という名は、「救い」という意味の名です。主の使いは21節で「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と説明しています。しかし、イエス様が30歳となり、宣教の働きを始められた時、多くのユダヤ人たちは、イエス様に、ローマ政府からユダヤの国を救いだす(ユダヤの国を独立させる)、救い主を求めました。イエス様はそのために人として生まれた神の子ではありませんでした。それゆえ、ユダヤ人たちはイエス様に失望し、律法学者や祭司たちと共にイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。

3.インマヌエルと受肉。

ユダヤ人にとって神は偉大なお方であり、その神が人に近づくことは恐れ多いことで、まして、神が人として生まれるなど絶対にありえないことでした。しかし、神は人間の知恵を越えて、私たちを罪より救うために、あえて神の御姿(栄光)を捨て人として、誕生してくださったのです。神様のご計画は、イエス・キリストによって世界を征服することではありませんでした。それどころか、私たちの罪の身代わりとして死ぬために人として生まれてくださったのです。私たちを罪から救うためには、罪の無い人の命が必要でした。しかし、人はアダムの子孫として、罪人として誕生してしまいます。罪の無い方は神様だけです。それゆえ、イエス様は私たちの身代わりとして死ぬために、あえて処女のマリヤを通して、私たちと同じ肉体を持って生まれてくださったのです。これを受肉と言います。インマヌエルとは、神が私たちと共におられるという意味でした。神は、私たちと罪から救うために、ひとり子イエス様をこの地上に誕生させてくださいました。イエス様はまさに、神でありながら私たちと共におられたお方、インマヌエルの神として、お生まれ下さったのです。

4.十字架の死と復活。

イエス・キリストが人間であったなら、死より復活することもなく、人々に捕らえられ殺された、惨めな死でしかありませんでした。しかし、イエス様は私たちと同じ人としての肉体は持たれましたが、神である本質を失ったわけではありません。イエス様は、人としての性質と神である性質を持ったお方でした。これを「二性一人格」と呼びます。イエス様は人であり神様でした。それゆえ、死より三日目に復活されて、天に昇って行かれたのです。

5.結論

罪を犯したのは人間です。本来、罪を犯した者は自分自身でその責任を負わなければなりません。しかし、神はその人の罪の責任をひとり子イエス・キリストに負わせました。また、イエス様は一度も罪を犯したことがなかったのに、人々の罪の身代わりとなるために人として生まれ、十字架刑という一番過酷な刑罰を受けられました。どうして神は、私たちの罪をひとり子イエス様に負わせたのでしょうか。また、イエス様はどうして、罪人の身代わりとなられたのでしょうか。その答えを聖書は、神様の性質が「愛」だからだと説明しています。人間の性質の中にも「愛」という性質はあります。愛する者のために自分の命を犠牲にすることはできます。また、自分の子どものために親は自分のいのちを犠牲にすることはできます。しかし、価値のない者や、罪を犯した者の身代わりになることはできるでしょうか。普通はできません。しかし、神は私たちよりも何十倍、何千倍の大きな愛を持っておられるおかたです。だからこそ、神は私たちに罪の責任を求めず、その責任をひとり子イエス様に背負わされたのです。また、イエス様は私たちを愛しているがゆえに、自ら十字架の上で、私たちの罪を背負って死んでくださったのです。私は、初め聖書を読んだ時、そのことを信じることができませんでした。なぜ、神はそこまでして、人の責任を負う必要があるのか理解できませんでした。しかし、聖書を読むうちに人間の罪の大きさ、また、神様の愛の大きさがわかって来た時に、神があえて私たちのためになされた大きな御業について信じることができるようになったのです。