人を愛すると言うことと、人を信頼すると言うことは繋がっているように思います。それは、人を愛すると言うことは、その人を信頼するから愛せるのであって、信頼の無い所に愛は生まれません。愛の無い時代と言われています。それは、信頼関係の希薄な社会だからかもしれません。都会では、核家族化が進み、隣近所との関係が希薄となっています。プライバシーということばによって、隣近所に干渉しない、隣の人がどのような生活をしているのか、無関心な社会となっています。映画「男はつらいよ」に登場する、寅さんと周りの人間関係を見る時に、心が温かくなるのは、そのような、親しい関係を心のどこかで求めているからでしょうか。
また、人を信頼するという心は、幼児期の環境による影響が大きいと言われています。幼い時に十分な愛を注がれ、受容されて育てられた人は、心が安定し、他者との信頼関係を結ぶことが容易にできる人格をもちます。しかし、幼児期に十分な愛情が注がれず、親に受容されずに育てられた場合、不安定な心を持ち、人を信頼することが難しい人格に成長すると言われています。
それでは、どうすれば、自分を受容し、他者との信頼関係を結ぶことができるような人格を身に着けることができるのでしょうか。私たちはもう一度、子どもの頃に生まれなおすことは出来ません。どうすれば、人を愛し人を信じる者に変えられるのでしょうか。そのためには、無条件に愛されることが必要だと言われています。人は無条件に愛される時、心を開き、他者を愛する者へと変えられるのです。しかし、私たちの周りにそのような人が存在しているでしょうか。そのような人と出会えた人は幸いな人です。
聖書が私たちに教える神様の姿は、無条件で息子を愛する父親の姿を表しています。イエス様のたとえ話に「放蕩息子」の話があります。息子は父親から財産を受け取ると、家を出て遠くの町に出て行ってしまいました。しかし、その町に飢饉が訪れ、彼は食べるにも困るほど落ちぶれてしまいました。そこで、彼は父の家での生活を思い出し、家に帰る決心をしました。ところが、息子が家に帰る前に父親が息子を見つけ、走り寄って抱きしめ、彼のために盛大な宴会を催したというお話です。ここで、父親は息子を責めることなく、そのままの汚れた姿の息子を抱きしめ、家に招き入れたのです。その無条件で息子を愛する姿こそが、真の神様ですよと人々に教えられたのです。神様は無条件で私たちを愛し受け入れてくださるお方です。その神様から愛され、受け入れられることによって私たちは、人を愛し赦し、信頼することを学ぶことができるのです。神様についてもっとお知りになりたい方はぜひ、教会にお越しください。お待ちしております。