旧訳聖書には、神がイスラエルの民に収穫を感謝して祭りを行うように命じています。農業にとって自然の働きは大きな影響を与えます。雨が降らないと干ばつになり、雨が多いと水害に見舞われます。当時は、天気予報もないですから、天候は神様だよりとなります。豊作は神様の恵で、凶作は神の怒りと感じたことでしょう。
神様は私たちがささげる、果物や穀物、収穫物のささげ物を喜ばれるのでしょうか。旧約聖書の中で、サウルという王様は神様のことばに従いませんでした。預言者サムエルはサウル王の行為を非難し「主(神)は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」と、いけにえよりも神のことばに従うことを喜ばれることを訴えました。実際に神様は、果物や収穫物を食べるわけではありません。神様は私たちが神様にささげる収穫物を通して私たちの神への感謝の気持ちを喜ばれるのです。
その事がアダムとエバの子、カインとアベルによって証明されています。カインは土地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりました。カインは土地の作物を、アベルは羊の初子の中から良い物を選んで神にささげました。神はアベルのささげ物に目を留められましたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。神はなぜ、アベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物に目を留められなかったのでしょうか。ここで、羊のささげ物の方が価値があったからではありません。二人はそれぞれ与えられた仕事の中からささげ物をささげたのです。二人の違いは心の中にありました。アベルは神様に良い物をささげたいという感謝の気持ちがありました。それでアベルは羊の中から良い物を選んでささげました。しかし、カインはどうだったでしょうか。神への感謝の気持ちがあったのでしょうか。神は私たちの心の中を見られる神です。私たちクリスチャンが日曜日に礼拝を守るのは、神様への感謝の気持ちの表れです。決して強制されて礼拝を守っているわけではありません。神は私たちの命を守り、必要な物を備えてくださいます。あなたも共に神様に礼拝をささげてみませんか。礼拝は誰でも参加できます。また、聖書や讃美歌もお貸しします。献金はありますがそれも強制ではありません。ぜひ、興味のある方は教会にお越しください。お待ちしております。