世の中は、生産性と能力を求める社会です。社会はその人が何をしてきたか、何ができるかで、その人を評価します。たとえば、どの大学を卒業したか、どのような能力(英検、パソコン、資格)があるかによって、その人の価値を判断します。そのような能力主義で人の価値を評価するとしたなら、高齢者や病人、障がい者は社会で暮らす価値のない者と評価されてしまいます。その評価を数値で表すなら評価はゼロです。そのような価値観が、高齢者障がい者を邪魔者扱いする人々を生み出しています。
人々は、そのような社会の中で、一生懸命頑張り、自分の価値を高め、自分の存在を認められようと努力しています。そのことは、悪いことではありませんが、人はどこかで不安を抱いています。誰しも、歳を取り高齢者の仲間入りをします。その時、人はどのようにして、自分の価値を維持することができるのでしょうか。
私の母は、86歳で亡くなりましたが、亡くなる二年程前から認知症が発生し、亡くな半年前には寝たきりになってしまいました。その母の口癖が「早く死にたい。」「生きていても意味がない。」でした。息子としては、その言葉を聞くたびに心が痛くなりました。「いや、そうじゃないよ。生きているだけで価値があるんだよ。」と言い続けました。能力主義で考えるならば、誰でも母のように早く死にたい、生きていても意味がないと思うのではないでしょうか。しかし、家族にとってはそうではありません。そこにいるだけで、生きているだけで大切な存在であり、生きているだけで価値があるのです。
引きこもりの問題も同じことが言えます。家族にとって、子どもが学校に行かない。会社に行かないことは、なまけているとしか見えません。一日中家にいるわけですから、生産性はゼロです。本人にとってみれば、行かないのではなく、いけないというのが真実でしょう。しかし、誰にもそんなつらい思いを理解されず自分自身の価値を見つけることができずに苦しんでいるのが実情です。それが進めば心の病となり、自殺に発展することもあります。多くの人々は、能力ではなく「存在」自体に価値があることを認めてほしいと願っています。何もしなくてもあなたがいるだけで価値があると言われることを願っています。人は、能力ではなくその存在自体を喜んで受け入れられる時、はじめて、心の平安を得ることができます。神様はあなた自身を見て「高価で尊い」と言ってくださるお方です。ぜひ一度、教会にお越しください。お待ちしております。