偶然か神の計画(恵み)か

「偶然か神様の計画(恵み)か」2025年10月号

ある日、イエス・キリストが歩いていると、生まれつきの盲人に目を留められました。弟子たちは彼を見てイエス様に尋ねました。「先生。この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」生まれつき障がいをもって生まれたり、禍が続くと人はその原因を知ろうとします。この盲人は生まれつきの盲人ですから、彼の罪ではないことは明らかです。すると彼が盲目に生まれたのは、彼の両親の罪か、彼の先祖の罪かと考えます。日本でも先祖の祟りかと考えます。しかし、イエス・キリストの答えは弟子たちの想像を超える答えでした。イエス様は言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」この後、イエス様は彼の目をいやされ目が見えるようになりました。旧約聖書の預言に、救い主(メシヤ)が盲人の目を開くと記されています。旧約聖書の中で、盲人の目を開いた預言者はいません。イエス様は彼の目を開くことによって、ご自分が旧約聖書に預言された救い主(メシヤ)であることを証明されたのです。

私たちは、生まれる時や場所、家族を選ぶことは出来ません。神の存在を認めない人にとって、それはすべて偶然の出来事としか考えられません。しかし、クリスチャンにとっては全て神様の計画によります。偶然であるならその中に何の意味も希望もありません。先程の生まれつき盲目で生まれた人は、初めから不幸を背負って生まれたことになります。しかし、神が私たちに命を与えられたとしたら、そこに偶然ではなく神の計画があるということです。たとえ障がいをもって生まれたとしても、神の計画には祝福があります。その時はその意味がわからなくても、後にその意味を知ることがあります。神様は私たちを苦しめるために命を与えられたのではありません。苦しめるためではなく、祝福するために命を与えられました。私たちは真の神様に出会ったとき、神の愛を知り、何のために生まれたのかその意味を知り、幸いな人生を歩むことが出来るのです。