「イエス様が示された神の愛」

「イエス様が示された神の愛」 ヨハネの福音書13章1節~11節

 私たちは愛を形として目で見ることは出来ません。あるドラマで、男性が自分の愛を女性に伝える時に、高価な宝石をプレゼントする場面を見たことがあります。高価な宝石をプレゼントすることによって、どれだけ自分が彼女を愛しているかを伝えようとしたのです。それも、自分の愛の大きさを相手に示す一つの方法でしょう。

 イエス様はヨハネの福音書15章13節で、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました。人にとって一番大切なものは、お金よりも命です。友を助けるために、自分の命を犠牲にする、これより大きな愛は無いとイエス様は言われました。愛する者のために自分の命を犠牲にする愛。子どもを助けるために自分の命を犠牲にする父と母の愛、人間はこれ以上大きな愛を持つことができません。しかし、神様はそれ以上の愛を持っておられました。それは、罪人を救うためにご自分の命を犠牲にされた、イエス様の十字架の愛です。また、これは神様の愛の大きさを私たちが目で見えるように表してくださった神の愛の姿です。

 先ほどお読みしましたヨハネの福音書13章の聖書の個所は、イエス様が天に昇って行かれる前に、弟子たちに示された愛のお話です。ここでヨハネの福音書の著者ヨハネは、このように表現しました。1節「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」「残るところなく」と訳されたことばは、「最後まで」とも訳されることばを使っています。また、英語の聖書では「end」という単語が使われています。イエス様は弟子たちと別れる前に、イエス様の持っておられる愛をおしみなく示されたという意味です。では、ここでイエス様が示された愛とはどのような愛でしょうか。この場面で行われた出来事の中心は、イエス様が自ら弟子たちの前にひざまずき、弟子たちの足を洗われたことです。この時、イエス様は、弟子たちが自分を一人残して逃げて行くことを知っていました。また、ペテロが自分との関係を否定し、三度も知らないと言うことも知っておられました。イスカリオテ・ユダに至っては自分を銀貨三十枚で裏切ることも知っていました。イエス様は、弟子たちが自分をそのように裏切ることを知った上で、弟子たちの足を洗われたということです。イエス様はそのことを通して、弟子たちに、また、私たちに何を伝えようとされたのでしょうか。それは「互いに赦し合う」ことです。14節「それで、主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。」互いの足を洗い合うということは、互いに赦し合うということです。

 マタイの福音書18章で、ペテロがイエス様に尋ねた場面があります。21節「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』」イエス様はペテロに言われました。22節「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」七度も赦すことは大変なことです。それを七十倍にするまでとは、回数の問題ではなく、何度でも赦しなさいということです。私たちは何度でも自分に危害を加えた者を赦すことができるでしょうか。イエス様はこの後、十字架に付けられた時、このように叫ばれたとあります。ルカの福音書23章34節「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」また、死より三日目に復活されて、自分を三度知らないと言ったペテロに現れて、言われました。ヨハネの福音書21章15節から、「あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」と三度、語りかけてくださいました。ここに、イエス様の赦しの姿を見ることができます。

 愛するとは、どういうことでしょうか。一般的に、愛するとは感情が優先します。しかし、堀先生が言われることは、愛とは、感情ではなく、意志が大切だということです。感情はその時の状況によって変わります。それゆえ、キリスト教の結婚式においては、「誓約」が最も重要視されます。私たちは結婚式で、神様の前に誓約をします。新郎に対して、「〇〇兄弟、あなたは今、この女性と結婚し、妻としようとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、助けて変わることなく、その健やかな時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」新郎「神と人との前で約束します。」新婦に対して、「○○姉妹、あなたは今、この男性と結婚し、妻となろうとしています。あなたはこの結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかな時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」新婦「神と証人との前で約束します。」これが、結婚式の時の誓約です。結婚は愛情があって結ばれるものですが、愛情だけで結婚生活を続けることは出来ません。私たちの結婚は互いの約束の上に成り立っているということです。

 神様と私たちとの関係も同じことが言えます。多くの日本人は、神様がおられることをなんとなく信じています。神様の存在を信じていない人が、お正月の初詣に、あんなにたくさんの人々がお参りに集まるでしょうか。また、お祈りをしてお賽銭をささげるでしょうか。多くの日本人は神様の存在を認めても、神様がどのような神様であるのか知らないで拝んでいる状態です。ヘブル人の手紙11章6節に「信仰がなくては、神の喜ばれることはできません。神の近づく者は、神がおられることと、神に求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあります。信仰とは、神様の存在を信じるだけではなく、報いてくださる方であることを信じなければならないとあります。

 先日、ユンさんの葬儀に参加して、牧師先生の説教の中で一つのことばが心に留まりました。「神が私たちを愛するとは、神が私たちの人生に関わって下さるということです。」日本人の多くは、困った時の神頼みをします。しかし、問題が片付けばすぐに神様を忘れてしまいます。しかし、神様の愛は変わりません。旧約聖書においては、神様はアブラハムとの約束のゆえに、イスラエルの民を愛し、祝福しました。そして、新約聖書では、イエス様を神の子と信じる信仰によって、私たちを愛し祝福すると約束して下さいました。私たちが神様を信じるということは感情によるのではありません。感情は不安定で、状況によって変わります。しかし、私たちの信仰は感情ではなく、意志によるものです。イエス様が私たちを愛してくださいました。私たちはその愛に、自分の意思で、イエス様を愛しますと告白します。それが、形として表されたのが、洗礼式なのです。私たちの感情は不安定な者です。神様を信じていても、状況によっては、不信仰な思いに心が支配されることがあります。しかし、私たちがどんな状況であっても、神様は私たちがなした誓い(洗礼)を忘れることはありません。神様はたとえどんなに私たちが不信仰な者でも、私たちとの約束を捨て去るような方ではありません。神の愛は、最後まで愛し続ける愛です。それゆえ、私たちも安心して神様を信頼することができるのです。