「イエス様の御足に香油を塗ったマリヤ」 ヨハネ12章1節~8節
先週はイエス様が愛された家族、マルタ、マリヤ、ラザロとイエス様との関係、また、ラザロが病で亡くなり、イエス様が死んだラザロをよみがえらされたところから、永遠のいのちについて考えました。今日は、イエス様の御足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐったマリヤから学びます。
マリヤという名は、女性に多く付けられた名で、新約聖書の中でも、6人のマリヤが登場します。(イエス様の母マリヤ、マグダラのマリヤ、ベタニヤのマリヤ、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、パウロの友のマリヤ)また、マリヤはギリシャ語の呼び方で、ヘブル語でモーセの姉ミリアムから音訳された名だと言われています。
ヨハネの福音書12章2節に「人々はイエスのために晩餐の用意をした。」とあります。この晩餐は、マルタとマリヤの家で行われ、死んだラザロをよみがえらせていただいた、イエス様に対する、感謝とお礼のためにマルタとマリヤが準備した晩餐ではないかと思われます。当時のイスラエルの食事の方法は、椅子に座って、食べるのではなく、床に座って、足を投げ出して食事を取っていました。または、横に寝ころんで食事をしていました。そのように皆がリラックスして食事をしている時に、3節「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエス様の足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」とあります。人々は突然のできごとに驚きました。その場にいたイエス様の弟子、イスカリオテ・ユダは憤慨して言いました。5節「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」イスカリオテ・ユダは、三百デナリ、約三百万円もする香油をいっぺんにイエス様のために使ったことがもったいないと映ったのでしょう。また、ヨハネの福音書の著者は6節「しかし、こう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中におさめられたものを、いつも盗んでいたからである。」と説明しています。この場面を考えると、周りにいた多くの人々も、イスカリオテ・ユダと同じようにもったいないと感じたのではないでしょうか。その雰囲気を察してイエス様はマリヤのためにこのように言われました。7節「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」マリヤは自分の弟ラザロを死からよみがえらせて頂いたお礼として、自分の持っている物のなかで、最高の物をイエス様に捧げたいと思ったのではないでしょうか。香油は、女性の化粧品(体臭を消す薬品)ですが、死んだ人間の腐敗のにおいを消す薬品としても用いられていました。さらに、ナルドの香油はにおいも強く、高価な物とされていました。そのように、マリヤはイエス様に感謝の気持ちで、自分持っている最高の物をイエス様にささげました。イエス様はラザロを死よりよみがえらせることによって、ご自分の死が近づいたことを感じていました。この後、イエス様はエルサレムに入られ、群衆の歓迎を受けますが、人々はイエス様に失望して去ってしまいました。それを見ていた、祭司長、律法学者たちはイエスを捕らえ、裁判にかけて、死刑の判決を下し、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。イエス様にとってこの時だけが、自分の死のために準備ができる唯一の時間でした。マリヤはそのことを知らずに、イエス様の足に香油を塗ったのですが、イエス様はそれを、葬りの準備として喜んで受け取られたということです。
ルカの福音書7章36節~50節にも罪深い女性が、イエス様の御足に香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐったというお話が登場します。この場面では、この女性が誰であるのか名前は明かされていません。ただ、罪深い女とだけ記されているだけです。明らかに先ほどのマリヤとは別人の出来事と思われます。先ほどのマリヤは、自分の弟を死よりよみがえらせていただいたことへのお礼として、香油をイエス様の御足に塗るという行為でした。ルカの場合は、自分の罪が赦された事への感謝の気持ちで、イエス様の御足に香油を塗ったということです。ここでの中心のテーマは「罪の赦しと感謝」です。ここで、イエス様はご自分を招いたパリサイ人に質問をしました。41節42節「ある金貸しから、二人の者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンがイエス様に答えました。43節「よけいに赦してもらったほうだと思います。」イエス様は「あなたの判断は当たっています。」と言われました。そして、イエス様を招いたシモンとイエス様の御足に香油を塗った女性と比較してこのように言われました。44節~46節「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に香油を塗ってくれなかったが、この女は、私の足に香油を塗ってくれました。」当時、お客を招いた場合、足を洗う水を出すことは礼儀とされていました。また、口づけをすることは愛情の表れで、香油を頭に塗ることは最高のもてなしとされていました。イエス様を招いたシモンは、イエス様に対して、足を洗う水を出すこともなく、口づけすることもありませんでした。それが、彼のイエス様に対する気持ちでした。しかし、この罪深いと言われる女性は、イエス様の御足に香油を塗り髪の毛でぬぐうという自分ができる最高の感謝の気持ちを表したのです。イエス様と出会う前の彼女はどのような生活をしていたのでしょうか。聖書には詳しく書かれていませんが、「不道徳な女」とも書かれているので、生活のために遊女として生きてきたのかもしれません。この町で汚れた女、不道徳な女と指さされて生きて来た女性です。その女性がイエス様と出会って変えられました。彼女はイエス様と出会うことによって、自分の罪が赦されたことを信じました。彼女は自分の多くの罪が赦されたことの感謝の気持ちを、イエス様の御足に香油を塗ることによって表したのです。しかし、シモンはイエス様を招いておきながら、客を招く礼儀に欠けていました。彼にはイエス様に対する感謝などかけらもなかったのです。イエス様は、このたとえ話を通して、罪とその赦しの関係について説明されたのです。罪の大きさと罪の赦しには比例の関係があります。シモンが言うように多くの借金が赦された方が、多く金貸しを愛します。では、私たちはどうでしょうか。私たちは神様の前にどれだけの罪を犯した者でしょうか。お金に換算して、1万円、10万円、100万円、一千万円、一億、十億、百億。それが、イエス様の十字架の死によって赦されたのです。1万円や2万円の罪が赦されてもうれしいですが、十億、百億の罪が赦されたとしたらどれほど大きな喜びを感じるでしょうか。もし、この感謝の気持ちが小さいとしたら、私たちの罪の自覚が小さいということです。ある人が教えてくれました。一日一回罪を犯したとしたら、一年で365回罪を犯したことになります。10年では3650回、50年では18250回、80年では29200回になります。私たちはどれ程多くの罪を赦された者でしょうか。イエス様の復活の前に、イエス様の十字架の苦しみと、私たちの罪の赦しについて、もう一度、深く考えましょう。