「キリストの復活の証人」

「キリストの復活の証人」 使徒の働き1章3節~11節

 今年の4月21日に、十字架に付けられ殺された後、死から三日目に復活されたイエス様を祝う復活祭イースターのお祝いをしました。しかし、イエス様はすぐに天に昇って行かれたわけではありません。使徒の働き1章3節に「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とあります。イエス様が四十日の間、弟子たちに復活されたご自分の姿を現されたのは、弟子たちをご自分の復活された証人とするためでした。コリント人への第一の手紙15章6節に「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」とあります。イエス様は、ご自分が復活されたことの証拠として、物的証拠は何一つ残されませんでした。その代りに、イエス様はご自分が復活されたことを証明するために、多くの弟子たちの前に姿を現し、弟子たちの証言を通して、ご自分が復活されたことの確かな証拠とされたのです。「神様を見たこともないのにどうして神様の事を信じることができるのですか。」と質問されることがあります。また、ある人たちは、「神様を見たら神様を信じます。」と言う人もいます。確かに、神様をこの目で見たなら、神様を信じるどころか、神様の存在を否定することもできません。しかし、神様はそのような方法を用いられませんでした。初めにイエス様がその姿を弟子たちの前に示された時、弟子のトマスはその場にいませんでした。それゆえ、トマスは、その場にいた同じ弟子たちから、イエス様が本当に復活されたことを聞きました。しかし、トマスは彼らの話を信じませんでした。そして、彼らにこのように言いました。ヨハネの福音書20章25節「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」イエス様は八日後にもう一度、弟子たちの前に姿を現され、トマスに言いました。27節「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスはイエス様に答えました。28節「私の主。私の神。」さらにイエス様はトマスに言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」見ずに信じる者とは、イエス様の姿や幻を見て信じる者よりも、弟子たちの証言(聖書のことば)を通して信じる者の方が幸いであると言われたのです。

  • 処女降誕について。

 どんなに科学技術が進んだとしても、処女のマリヤから一人の男子が生まれたことを説明することは出来ないでしょう。しかし、私たちは、イエス様が処女のマリヤから生まれた理由については、聖書を通して教えられています。私たちの罪の身代わりとなるためには、動物の犠牲では不十分でした。また、罪ある人間は、人の罪の身代わりとなることは出来ません。私たちの罪の身代わりとなるためには、罪の無い、神の子でなければなりませんでした。しかし、神には肉体もなく、死ぬこともできません。そこで、イエス・キリストは、私たちの身代わりとして、死ぬために、マリヤという一人の女性の体を介して、肉体を持って生まれてくださったのです。もし、マリヤとヨセフが肉体関係を持ってイエス様が誕生したとしたら、どうやってイエス様の無罪性を証明することができたでしょうか。イエス・キリストが神の子でありながら、肉体を持って生まれたからこそ、私たちの罪の身代わりとなることができたのです。

  • 復活について。

 復活についても同じことが言えます。私たちはどのような方法で、イエス様が死より復活されたのか説明することは出来ません。イエス・キリストは人の体をもって生まれましたが、その本質は神様で、一度も罪を犯すことがありませんでした。それゆえ、イエス様は死に縛られることなく、三日目に死より復活されたのです。このイエス様の処女降誕と死からの復活はすべて、イエス・キリストが神の子であるという前提があって成り立っているものです。イエス・キリストが人間であるなら、この考えは成り立ちません。しかし、聖書全体が、イエス・キリストを神の子と証言しています。私たちに委ねられたのは、それを信じるか、信じないかです。私も初めこの二つの奇蹟を理解しようと苦しみました。しかし、聖書は、処女降誕と復活を理解しなさいと教えているわけではありません。ただ、信じなさいと勧めているだけです。理解すると信じるとは大きな違いがあります。例えば、皆さんは私のことをどれだけ理解しているでしょうか。だれも、私のことを100%理解している人はいません。しかし、私が神様によってこの教会の牧師として任命されていることを信じています。ですから、私の説教を神のことばとして耳を傾けてくださっています。それは、私を理解しているからではなく、私を牧師として信頼してくださっているからです。それを神様との関係に当てはめるなら、私たちは神様を100%理解できませんが、神様が私たちを愛してくださっていることを信じているということです。その信頼の土台となっているのが聖書のことばです。

  • 復活の証人ということについて。

 使徒の働きの1章に戻って。8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。イエス様の復活の証人とはどのようなことでしょうか。使徒の働き9章にパウロが復活されたイエス様と出会ったことが記されています。パウロは、キリスト教を激しく迫害した人でした。彼は、ユダヤ人議会からキリスト者を捕らえ牢獄に入れる権限を得て、ダマスコにいるクリスチャンを捕らえに出かけました。しかし、彼はその途中で、まばゆい光に覆われ、復活されたイエス様と出会ったのです。使徒の働き9章3節「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天から光が彼を巡り照らした。」4節「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。」5節「彼が『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」そうして、彼は180度変えられ、イエス様の復活を宣べ伝える者に変えられました。彼によって、キリスト教が世界中に宣べ伝えられるようになりました。私たちが、イエス様の復活の証人となるということは、言葉で、イエス様の復活を説明することではありません。弟子たちはパウロにように、イエス様と出会って変えられた生活を通して、イエス様が生きていることを証しする者とされたのです。人を赦せない者が人を赦し、人を愛せない者が愛せる者に変えられた姿、それこそが、イエス様が今も生きて働いておられる証拠です。私たちの生活は、イエス様に出会ってどのように変えられたでしょうか。また、それは、自分の力で自分を変えるのではなく、神様の力、聖霊様の力があって初めてできることです。神様は救いの恵みだけではなく、証し人としての力も与えてくださいます。これからも、神様に信頼してイエス・キリストの復活の証人として生きて行きましょう。