「偽善者の施しと祈りと断食」 マタイの福音書6章1節~18節
マタイの福音書6章1節でイエス様は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いをうけられません。」と言われました。ユダヤ教の中で、「善行」と言われる行為の中で、「施しと祈りと断食」が最大のものと言われていました。そこで、イエス様は、パリサイ人たちが行っている、「施しと祈りと断食」の間違いを指摘し、本来、神様が求めておられる「施しと祈りと断食」がどうあるべきかを教えられたのです。
1、「施し」(2節~4節)
「施し」は、最高の善行と言われ、パリサイ人たちは積極的に貧しい人々に施しを行っていました。しかし、イエス様が問題とされたのは、彼らの動機でした。パリサイ人たちは人々から褒められるために、あえて、人前で施しをして、自分の正しさ、信仰深さを人々の前で披露していたのです。イエス様が指摘した、彼らの偽善行為は、2節「会堂や通りで施しをする」「自分の前でラッパを吹いている」でした。二つに共通していることは、「人が集まるところで」また、「人に見えるように」施しを行っている点です。イエス様はそれに対して3節「右の手のしていることを左の手にしられないようにしなさい。」といわれました。また、それは、「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われたのです。イエス様は「施しを」禁じたわけではありません。パリサイ人たちの動機「人々に見せるため」「人々から褒められるために」施しをしてはならないと、戒められたのです。また、施しの動機が、神様から報いを受けるためでも間違っています。「施し」とは、あくまでも、あわれみの心から行う行為です。神様は、私たちの、貧しい者を憐れむ心を喜んでくださるのです。
2、「祈り」(5節~15節)
イエス様は祈りについて、二つのことを注意しています。
(1)人に見せるための祈り
イエス様は、5節「また、祈る時には、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」と言われました。先ほどの「施し」と同じように、人に見せるために人々の前で祈るなと言うことです。ユダヤ教では、午前9時、正午、午後3時に、どこにいても祈るように定められています。それゆえ、パリサイ人たちは、その時間に、あえて、人通りの多い場所や会堂に向かい、人に見えるように手を挙げて祈ったのです。
(2)同じ言葉を繰り返す祈り
イエス様は、7節で「異邦人のように同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。」と言われました。世界中には、色々な宗教がありますが、呪文やお題目を何度も繰り返して祈る宗教がたくさんあります。その多くは、その意味さえ知らされず、ただ何回も繰り返して唱えることが祈りだと教えられています。キリスト教にとって祈りとは、人間が神と会話する大切な時間です。それゆえ、私たちは自分のことばで神様に祈ります。8節に「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要なものを知っておられるからです。」とあります。教会に通い始めの頃、この言葉を読んだ時、不思議に思いました。神様が私たちの必要を知っておられるなら、なぜ、私たちは祈る必要があるのでしょうか。そのような思いを持つのは、日本の宗教、特に、神道の影響があるからではないかと思います。日本人は毎年、初詣には神社にお参り行き、今年無事でありますように、病気をしないように、良い年になるようにお祈りします。しかし、それは、自分の願望を、知らない神様に告げているだけで、自己中心な祈りです。神様が私たちの必要を知っているのに、なぜ、私たちは神様に祈るのでしょうか。その答えは、私たちの祈りが、自分の必要のためだけに祈るのではないからです。聖書が私たちに教える祈りとは、神様とのコミュニケーションです。私たちは、自分の願を神様に知っていただくと共に、神様の御心を私たちが知るためです。そこで、イエス様は弟子たちに9節から13節で主の祈りを教えてくださったのです。主の祈りは、イエス様が私たちに教えてくださった見本の祈りです。これを学ぶことによって、私たちがどのように神様に祈ればよいかがわかります。
- 誰に祈るのか(父なる神に祈る)
- 讃美(神様を褒めたたえる祈り)
- 神様の御心が天において地において行われるように祈る。
- 私たちの必要のために祈る。
- 私たちの罪の赦しと、私たちも周りの人たちを赦す祈り。
- 試みに合わないように、悪から救われるように祈る。
14節15節のことばも大切です。私たちが人の罪を赦すのは、私たちが神様から多くの罪を赦されているからです。
3、「断食」(16節~18節)
マタイの福音書9章14節で、バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス様に断食について質問している個所があります。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」ルカの福音書18章12節では、このパリサイ人は週二回断食していることを誇っています。また、捕囚の時期には、年四回、断食の日が定められていたとあります。そのように、パリサイ人たちは定期的に断食をしていました。しかし、イエス様の弟子たちは、パリサイ人たちのように断食をしていませんでした。イエス様はこのように答えられました。15節「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。」花婿(イエス様)が弟子たちと共にいる時は、断食しないが、花婿が取りされれる(死と復活の後)と弟子たちも断食すると言われたのです。断食について、パリサイ人たちの偽善は、やつれた顔をして、いかにも断食していることが人にしていることです。イエス様は、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさいと言われました。パリサイ人たちは断食さえも、人に褒められるために、利用していたのです。
ユダヤ教でも大事とされた「施し、祈り、断食」について学びました。パリサイ人たちは、この「施し、祈り、断食」を人前で、見えるように行うことによって、いかにも自分が信仰深い者であるかを自己宣伝していたのです。しかし、「施し、祈り、断食」は、人に見せる者ではなく、神様との関係を深めるためのものです。私たちも、気を付けて、神様に祈り、隣人にあわれみの心を持ちたいと思います。