「心の貧しき者の友イエス」

「心の貧しき者の友イエス」 ヨハネの福音書4章3節~26節

 先週のお話で、申命記8章の個所から、イスラエルの民がカナンの地を征服するに当たって、モーセが心配して、イスラエルの民に対して警告した文書についてお話しました。申命記8章11節~14節「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そうゆうことがないように。」と戒めています。この警告は、イスラエルの民だけではなく、現在、日本で生活している私たちに対しての警告でもあります。経済的に豊かで、平和に暮らしている日本人にとって、神様を必要だと思う強い気持ちを持つことはありません。

 イエス様は、マタイの福音書5章からの山上の説教で、「幸いな人」について教えています。3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人の者だからです。」とあります。初めて聖書を読んだ時、この「心の貧しい者は幸いです。」ということばを理解できませんでした。「心が貧しい」ことが何故、幸いなのだろうかと不思議に思いました。しかし、色々調べてみますと、「心が貧しい」とは、この世の富や名声、快楽、この世の楽しみで心を満たすことができない人のことを指すと説明がありました。それを見て、初めて納得しました。マタイの福音書19章16節から、お金持ちの青年がイエス様に「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか。」と質問した個所があります。イエス様はその青年に21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで。わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、その青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行ったとあります。イエス様は言いました。「この人は多くの財産を持っていたからです。」イエス様は財産を貧しい人に施すことによって永遠のいのちを得ることができると教えたわけではありません。このお金持ちの青年にとって、神様を求める気持ちと財産に頼る気持ちと二つが存在していました。イエス様はそのうちの一つ、財産に頼る気持ちを手放さなければ、神様に頼ることができず、永遠のいのちを得ることができないと教えられたのです。また、イエス様は23節において、「金持ちが天の御国に入ることは難しいことです。」と言われました。また、24節「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われました。らくだは、イエス様の回りで一番大きな動物です。また、針の穴は身近な物の中で、小さい物の代表です。イエス様が弟子たちに言わんとしたことは、それほど、お金持ちが神の国にはいるのが難しいということです。なぜなら彼らの心は富や名声、快楽、楽しみで満ちているからです。

 当時の祭司、レビ人、律法学者パリサイ人たち(ユダヤ教の指導者たち)は、自分の清さを守るために、貧しい人々や、罪人と呼ばれる人々に近づいて、彼らを助けようともしませんでした。そんな中、イエス様は貧しい人々に積極的に近づき、彼らと食事を共にしました。しかし、そんなイエス様の姿を見て、パリサイ人律法学者たちはイエス様を非難しました。そんな彼らにイエス様はこのように言われました。マタイの福音書9章12節13節「医者を必要とするものは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい者を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 新約聖書を見ると、イエス様は病人や貧しい人、取税人、汚れた人たちに近づき、積極的に友達となられました。初めに読みましたヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの女性に対してもそうです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は宗教的な対立のために互いに付き合いをしませんでした。イスラエル人がガリラヤ地方に行く場合、あえて遠回りをしてサマリヤの町を通らないで旅行したほどです。しかし、この時、イエス様はあえて、サマリヤの町に立ち寄られたのです。それは、心傷つき心の貧しい一人の女性の友となるためでした。ヨハネの福音書4章で、イエス様は一人井戸のかたわらで、腰を下ろして休んでおられました。その時に一人のサマリヤの女性が井戸に水を汲みにやって来ました。時は6時ごろであったとあります。現在の時間に合わせるとお昼の12時ごろにあたります。イスラエルの日中は温度が高くなり、普通、この時間に井戸に水を汲みに来る人はいません。普通は朝早くか夕方に水汲みをします。この女性は、あえて人目を避けて、暑い時間に井戸に水を汲みにきたのです。なぜ、彼女は人目を避ける生活をしているのでしょうか。後に、イエス様が彼女に指摘したように、彼女には、以前5人の夫があったが、今は6人目の男性(正式の夫ではない)と一緒に暮らしていたからです。5人の男性と結婚と離婚を繰り返し、今もまた、不貞の関係を続ける女性、世間はこのような女性をいかがわしい女性として、まともな付き合いをしなかったでしょう。彼女はユダヤ社会から疎外された孤独な女性でした。イエス様はそのような女性に声をかけたのです。イエス様は彼女に言われました。7節「わたしに水を飲ませてください。」彼女は驚いたことでしょう。この町では見知らぬ男性。しかも、ユダヤ人らしい男性が自分に水を求められたからです。彼女はイエス様に言いました。9節「あなたはユダヤ人なのに、どうして、サマリヤの女性の私に、飲み水をお求めになるのですか。」イエス様は水の問題から、彼女の心の問題に踏み込み、そして、救い主についての質問を彼女から引き出しました。彼女はどうしてそのように、男性の愛を求めたのでしょうか。」彼女の心は乾いて、真の愛を求めていました。まさに、彼女は「心の貧しい」女性でした。イエス様は、ユダヤ人もサマリヤ人も求めている救い主がご自分であることを明らかにしました。彼女は驚き、サマリヤ中の人々にイエス様のことを伝えたのです。この後のことは聖書には書かれていませんが、このサマリヤの女性はどのように変えられたでしょうか。少なくとも、不貞関係は解消し、神様を求める信仰へと導かれたのではないでしょうか。

 イエス様はあえて、病人や貧しい人の友となりました。しかし、祭司やレビ人、お金持ちはイエス様から去って行きました。私たちの心は飢え渇いているでしょうか。それとも、この世の富、楽しみで満ちているでしょうか。イエス様は群衆に言われました。マタイの福音書5章「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」天の御国は、この世の富、快楽、楽しみでは心を満たすことのできない人たちのものだからです。