「永遠のいのち」

「永遠のいのち」 マタイの福音書19章16節~22節 召天者記念礼拝

 伝道者の書7章2節に「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」とあります。以前、四国の松山教会の先生とお話した時、今週は三回も葬儀をしましたと言うお話を聞いて驚きました。松山教会は、アライアンス教団で一番大きな教会です。毎週の礼拝でも、100人から120人の人々が礼拝に集まっています。また、その歴史は100年を超えています。それゆえ、高齢化が進み、入院しておられる方や、施設に入所しておられる方々が多く、一週間、気を抜くことができないとおしゃっていました。また、その先生は、葬儀の大切さについても教えてくださいました。葬儀には、普段、礼拝に来られない、家族や親せきが集まります。葬儀の中で聖書の話をすることによって、子どもの頃日曜学校に通っていた人たちや、ミッション系の学校を卒業された方々が、教会に戻る可能性が高い。ある方は、父親の死を通して、教会に戻り洗礼を受ける方もおられたということでした。それゆえ、葬儀も神様の恵みの時だと言われました。先ほどの、伝道者の書7章2節の通りです。私たちは、普段、自分の死について考えることはありません。しかし、身近な方の死を通して、私たちは自分の命の終わりの時があることを覚えます。人は、死んだ後どうなるのか。これは、科学や哲学では、解決できない問題です。聖書ははっきりと、人は死んだ後、神様の前に立ち、自分の罪のゆえに裁かれるとあります。しかし、イエス・キリストを神の子と信じる者は、イエス・キリストの十字架の死によって、罪が赦され、天の御国にて永遠に神と共に暮らすことができる。これが聖書の教えです。今日は、「永遠のいのち」について考えます。

1、永遠のいのちを求める青年(マタイの福音書19章16節~22節)

 一人の青年がイエス様の所に来て質問しました。16節「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」ここで、この青年が求めた「永遠のいのち」とはこの地上で永遠に生き続けるいのちのことではありません。彼が求めた「永遠のいのち」は、天の御国(天国)において永遠に生きるいのちのことです。彼の質問は、「どうしたら天国に入れますか。」という質問です。この問題は、ユダヤ教の中でも、熱心に議論がなされていました。この青年はその議論を知りつつも、最近、有名になった、イエス様なら何と答えられるか興味を持ってイエス様の所に来たのです。イエス様は彼に言いました。17節「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」イエス様が言われた「戒め」とは旧約聖書全体を指すことばです。律法学者たちもそのように考えていましたが、どの戒めを守るべきなのかは、意見が割れていました。それゆえ、この青年も18節「どの戒めですか。」ともう一度イエス様に問いかけたのです。そこで、イエス様は、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の後半の戒めを上げられました。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(最後のことばはイエス様が最後の部分をまとめられた言葉です)この答えは、多くの律法学者たちも共通して教える所でした。これを聞いて彼はイエス様に言いました。20節「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」この青年は裕福な家庭に生まれ、正しく育てられたのでしょう。先ほどイエス様が上げた項目を、自信をもって守っていると言うことができました。しかし、それでも、天の御国に入れる確信を持つことができずに永遠のいのちを求め続けているのです。そこでイエス様は彼に言われました。21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人々に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」イエス様は、貧しい人々に施し、天に宝を積めば、天の御国に入ることができると言われたわけではありません。この青年は、多くの財産を持っていたがために、神様ではなく、財産に頼っていることをイエス様は見抜かれました。そこで、この青年に、財産を手放すことによって、神様だけに頼る者になりなさいと、アドバイスをされたのです。しかし、この青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行ったとあります。彼は、多くの財産を持っているがゆえに、その財産を手放すことができなかったのです。マタイの福音書6章24節で、イエス様は群衆にこのように言われました。「だれでも、ふたりの主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」財産を持つことが悪いことではありません。しかし、人間は弱い者で、目に見えない神様より、目に見える財産に頼りやすい者です。「永遠のいのちを持つ」とは、神様だけに頼って生きることです。イエス様はそのことをこの青年に教えようとされたのです。

2、永遠の命とは(ヨハネの第一の手紙5章13節)

 「永遠のいのち」とは、死んだ後に神様から頂く、特別ないのちではありません。ヨハネの第一の手紙5章13節を読むと「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」とあります。「永遠のいのち」を持つということは、死んでから天国に行って永遠に暮らすということではありません。生きていて、この地上で永遠のいのちを持つということです。それは、永遠のいのちであるイエス様を心にお迎えすることです。イエス様は天に昇って行かれる前に、弟子たちに、ご自分の代わりに聖霊様を与えると約束して下さいました。聖霊様はイエス様と同じ人格の存在です。私たちがイエス様を神の子と信じた時、私たちに聖霊様が与えられると約束して下さいました。聖霊様は、私たちと共におられ、私たちの助け主であり、慰め主だと言われています。私たちはこの地上において、悲しみや苦しみがあります。しかし、聖霊様は、イエス様の代わりに私たちを助け、慰めてくださる働きをしてくださいます。私たちはこの目で聖霊様を見ることは出来ませんが、祈りを通して、聖霊様の臨在に触れることができます。以前「あしあと」という詩を紹介しましたが、その作者は、砂浜をイエス様と共に歩いている夢を見ました。自分達の後ろには二人分の足跡がありました。ところが、ある所は一人分の足跡しかありませんでした。思い返せば、それは、自分が一番つらい時でした。そこで、彼女はイエス様に尋ねました。「わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしをすてられたのか、わたしにはわかりません。」主は彼女にささやかれました。「わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみの時に、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた。」彼女は苦しみの時、神様に捨てられ一人で苦しみに耐えていたと思っていたが、実は、神様は共におられ自分を背負って歩いておられたことを夢で知らされたとのです。永遠の命とは、死んでから与えられるいのちのことではありません。イエス様を神の子と信じた瞬間に与えられる神様の恵みです。それは、イエス様がその瞬間からあなたと共におられ、残りの人生を最後まで責任をもって共に歩んでくださるという特別な恵みなのです。